平清盛公西八条殿跡〜若一神社〜
JR西大路から西大路通りを北に上ると、右手に見えるのが若一神社です。大きな楠が目印です!!境内の入り口には「平清盛公西八条殿跡」という石碑があります。 こ…
JR西大路から西大路通りを北に上ると、右手に見えるのが若一神社です。大きな楠が目印です!!境内の入り口には「平清盛公西八条殿跡」という石碑があります。 こ…
高倉天皇は後白河院と平滋子の間に生まれました。母の滋子は平清盛の妻、時子の異母妹で、後白河院と対立関係にあった二条天皇派を抑え込む形で、仁安3年(1168年…
後白河法皇が六条西洞院にあった御所六条殿内に寿永2年(1183)頃に建てた持仏堂が基といわれます。長講堂という名の由来は「法華長講弥陀三昧堂」という法華経を…
新熊野神社(いまくまのじんじゃ) 新熊野神社は永暦元年(1160年)、後白河法皇によって「法住寺殿」の鎮守社として創建されました。社殿は平清盛の造営だとされ…
後白河法皇が御所とした法住寺殿には、千手観音坐像と千体の千手観音立像を納めた、通称三十三間堂が蓮華王院内に建てられました。 三十三間堂は、御堂内陣の柱間が…
法住寺は、はじめ永祚元年(989)に藤原為光が建立しました。為光は寛和元年(985)の6月に亡くなった夫人と、同年7月に亡くなった息女忯子の菩提をとむらう為…
六波羅は平安京の東を流れる鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯をいいます。 もともとは天暦5年(951)に醍醐天皇第二皇子光勝空也上人が西光寺を創建→後に中…
石橋山の合戦で敗れ、逃避行を続ける頼朝を救ったのが土肥実平です。 土肥実平は今の湯河原から真鶴にかけて所領とし、土肥郷を名字の地としました。 JR湯河原駅の…
治承四年八月二十三日夜、雨の降りしきる中、大庭景親率いる平氏軍の猛攻により、頼朝は敗れ後ろの山に退きました。 翌二十四日、大庭景親の執拗な追撃により、頼朝…
伊豆国で挙兵した源頼朝と北条時政は、味方と頼む三浦半島の大豪族、三浦氏と合流するために東の相模国へと兵を進めました。 頼朝等の反乱に対して平氏方の大庭景親…
鎌倉市大船にある常楽寺は、北条泰時ゆかりの古刹です。この常楽寺の裏山に、木曽義仲の子で、頼朝の命によって殺害された源義高の墓があります(木曽塚・木曽免とも)…
先日。伊豆の熱海から修禅寺へ車で山道を抜けました。途中、石碑があり横目でみると、堀親家屋敷跡の文字が見えました。堀親家というと、頼朝挙兵時に参陣した「吾妻鏡…