名所旧跡探訪〜堀親家屋敷跡〜

名所旧跡探訪〜堀親家屋敷跡〜

 先日。伊豆の熱海から修禅寺へ車で山道を抜けました。途中、石碑があり横目でみると、堀親家屋敷跡の文字が見えました。堀親家というと、頼朝挙兵時に参陣した「吾妻鏡」に出てくる人物です。気になり、車を停めて石碑と周囲を確認してみました。

 付近には石碑以外なにもなく、こんな山中が出身地なのかと思うと、想像以上に頼朝挙兵時の伊豆の武士達は、小規模だったのだと感じられました。

 さて石碑の場所ですが、神奈川県からだと熱海を過ぎ、伊豆多賀を越えた大仁線(国道80号)を入っていきます。入口はわかりづらく住宅地なので、慎重な運転が求められます。急な坂道を登り、山伏峠を越えて、細い山道を曲がったあたりに石碑はあります。付近は人家のないとてもわかりづらい場所です。

 堀親家は、伊豆の豪族工藤氏の庶流といわれています。頼朝挙兵からの忠臣で、元暦元年(一一八四)四月に木曽義仲が人質として鎌倉へ差し出していた子の義高が逃亡すると、追手を命じられました。親家の郎党が入間河原で義高を殺害すると、義高の許嫁であった頼朝の娘大姫は悲しみのあまり、食事をとらなくなり衰弱していきます。

 大姫を心配した母の政子は、頼朝に下手人の処罰をもとめ、親家の郎党は頼朝の命により梟首されてしまいました。

 親家は、その後も頼朝の側にあり、奥州合戦や頼朝の上洛に従事しました。頼朝死後は二代将軍の頼家に仕えました。そして北条時政が比企一族を滅ぼした事を知った病床の頼家から、時政を討つよう和田義盛・新田忠常らに書状を渡して欲しいと頼まれました。親家は頼家の命にしたがい使者として和田義盛の許へ向かいました。

 しかし和田義盛は、この書状を時政に差し出したため、親家は捕らえられて、工藤行光によって親家は殺害されてしまいました。こうして頼朝挙兵以来の忠臣、堀親家は無念の生涯を終えたのです。