名所旧跡探訪~木曽義高の墓~

名所旧跡探訪~木曽義高の墓~

 鎌倉市大船にある常楽寺は、北条泰時ゆかりの古刹です。この常楽寺の裏山に、木曽義仲の子で、頼朝の命によって殺害された源義高の墓があります(木曽塚・木曽免とも)。

 源義高は、清水(志水)冠者といわれ、史料によっては義重・義基とも記されています。

 寿永二年(一一八三)木曽義仲は、頼朝との衝突を回避するため、十一歳の義高を人質として差し出しました。義高は信濃国の名族の子弟、海野幸氏や望月重隆らをともなって、頼朝の長女である大姫の婿ということで鎌倉へやってきました。

 しかし、頼朝と義仲は対立するようになり、翌年の正月に父の義仲は、頼朝方によって討たれてしまいます。

 こうなると義高は、頼朝を父の仇とする可能性のある危険分子と考えられるようになりました。

 寿永三年(一一八四)四月二十一日、頼朝が義高を、亡き者にする考えを持っていると知った大姫は、義高を密かに逃がそうとします。義高と同年でいつも双六の相手をしていた海野幸氏が義高に変装しました。そして義高は女房姿に変装して大姫の侍女達に囲まれ屋敷から脱出しました。

 義高は大姫の用意した馬に乗って、鎌倉を抜け出して信濃国を目指しました。しかし夜になり義高の逃亡が明るみになると、頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家に郎党を派遣して、義高を討ち取るよう命令を下しました。

 義高は入間河原で追手に捕らえられ、親家の郎党藤内光澄に討たれてしまいました。

 そして同年五月五日には、義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、謀反を企てている噂がひろまり、頼朝は信濃国に大規模な軍勢の派遣をおこないました。

 また義高の死を知った大姫は、嘆き悲しみ病床に伏してしまいました。大姫の病を心配した母の政子は、義高を討ったため大姫が病になったのだと、義高を討った郎従を処罰せよと頼朝に強く迫りました。そして義高を討った藤内光澄は晒し首にされました。しかしその後も大姫の悲しみは晴れることがなかったといいます。

 このように政略結婚は、平和な時代が保たれているときはよいですが、いったん争いがはじまると打ち消すことのできない悲しみをもたらす非情な政策となりました。