後白河法皇が六条西洞院にあった御所六条殿内に寿永2年(1183)頃に建てた持仏堂が基といわれます。長講堂という名の由来は「法華長講弥陀三昧堂」という法華経を講義し、阿弥陀仏を念じるための御堂をいいます。同名の持仏堂はいくつかありましたが、後白河法皇の長講堂がもっとも有名で、長講堂と言えば同寺を示すようになりました。
文治4年(1188)御所の六条殿とともに火災によって焼失します。しかしすぐに後白河法皇は諸国に再建を命じて、その年のうちに完成しました。
後白河法皇は亡くなる前年の建久2年(1192)、42ケ国89箇所に及ぶ、自らの荘園を長講堂に寄進し、まるごと愛娘の覲子内親王(きんしないしんのう)、後の宣陽門院に譲り渡します。これらの膨大な所領群は後に「長講堂領」と呼ばれ、一大荘園群として持明院統に継承されました。