三浦半島の史跡
小冊子レキシノワ6号では三浦一族を取り上げています。ここでは紙面で書ききれなかった「治承四年八月の三浦一族の戦い」を紹介した全三回のURLをまとめました。小…
小冊子レキシノワ6号では三浦一族を取り上げています。ここでは紙面で書ききれなかった「治承四年八月の三浦一族の戦い」を紹介した全三回のURLをまとめました。小…
老将最後の地、「衣笠城址」。迫る平氏方を、先祖ゆかりの衣笠で迎え撃つことを決めた老将三浦義明ですが、新手を加えた平氏勢の猛攻を前に、一族へ上総・安房へ落ち延…
由比浦合戦(小坪坂合戦とも)で平氏方を退却させた三浦一族ですが、体勢を立て直した畠山重忠は敗北の恥を晴らそうと、三浦一族の拠点があった衣笠・矢部を目指しまし…
石橋山の合戦で源頼朝が敗北し土肥の山中を彷徨う時、頼朝と合流を試みた三浦一族は、平氏方の追撃を受けながらも、三浦半島に引き上げました。その際に起こった戦い「…
今回は清盛の造った港「大輪田」の泊について現地を訪れた様子をレポートします。瀬戸内海と太宰府、中国(南宋)との貿易を積極的におこなっていた平清盛。出家して福…
神戸の街にかすかに残る史跡から、かつての都「福原」をレポートします。 治承4年5月平安京で以仁王の乱が起こると、平清盛は摂津国福原へ遷都を強行しました。これ…
JR西大路から西大路通りを北に上ると、右手に見えるのが若一神社です。大きな楠が目印です!!境内の入り口には「平清盛公西八条殿跡」という石碑があります。 こ…
高倉天皇は後白河院と平滋子の間に生まれました。母の滋子は平清盛の妻、時子の異母妹で、後白河院と対立関係にあった二条天皇派を抑え込む形で、仁安3年(1168年…
後白河法皇が六条西洞院にあった御所六条殿内に寿永2年(1183)頃に建てた持仏堂が基といわれます。長講堂という名の由来は「法華長講弥陀三昧堂」という法華経を…
新熊野神社(いまくまのじんじゃ) 新熊野神社は永暦元年(1160年)、後白河法皇によって「法住寺殿」の鎮守社として創建されました。社殿は平清盛の造営だとされ…
後白河法皇が御所とした法住寺殿には、千手観音坐像と千体の千手観音立像を納めた、通称三十三間堂が蓮華王院内に建てられました。 三十三間堂は、御堂内陣の柱間が…
法住寺は、はじめ永祚元年(989)に藤原為光が建立しました。為光は寛和元年(985)の6月に亡くなった夫人と、同年7月に亡くなった息女忯子の菩提をとむらう為…