平氏の都「福原」。

平氏の都「福原」。

 神戸の街にかすかに残る史跡から、かつての都「福原」をレポートします。

治承4年5月平安京で以仁王の乱が起こると、平清盛は摂津国福原へ遷都を強行しました。これは比叡山延暦寺や南都興福寺の大勢力や、反平氏勢力が潜む平安京から、安徳天皇や朝廷を安全な場所へ遷すためでした。

 平氏の都「福原」と「大輪田」は、現在の神戸市兵庫区一帯で、北は六甲山の麓から南は瀬戸内海を望む地にあたります。治承4年6月、平安遷都から400年に及ぶ久しぶりの遷都が始まりました。しかし遷都に戸惑う人々、急な引越し、福原が狭小な地だったことから事業は難航します。

 そして8月、伊豆で源頼朝が挙兵し、各地で武力蜂起の火の手があがると、各地の反乱を鎮圧する為、清盛は平安京への還都に踏切りました。こうしてあっという間に終わった平氏の都「福原」と「大輪田」ですが、現在、同地を訪れると今もその名残を感じることができます。

 例えば地名として、雪御所町・上祇園町・上三条町・熊野町など。さらに清盛が築港したあたりには築島の交差点が残っています。

 この福原の地を平清盛が得たのは、遷都から遡ること20年、応保年間(1161〜1162)といわれています。そして仁安3年(1168)出家した清盛は、翌年この地に別荘を建てて移り住みました。通常の政務は平安京に残した息子の重盛や宗盛に任せ、自身はよっぽどのことがない限り、上洛することはありませんでした。

 明治41年(1908)旧湊川小学校の校庭から礎石や土器が見つかりました。この地は古くから清盛の雪見御所があったといわれ、「雪見御所舊跡」の石碑が建てられました。

 また清盛邸の近くには温屋があったと「山槐記」の治承3年6月条に中山忠親は記しています。今も近くには湊山温泉♨️があります。さらに福原を一望できる夢野八幡神社から、狼煙をあげて新都の位置を測り、都づくりの計画をたてたといわれています。裏山からは今も市内が一望できました。

 さて治承4年6月に始まった福原への遷都ですが、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の御在所、及び平氏一門の邸宅は何処だったのか?

 まずは後白河法皇。薬仙寺に「萱の御所跡」と伝わる跡があります。ただ平教盛邸のあった氷室神社や夢野の熊野神社付近・祇園神社あたりに住んでいたともいわれています。いくつかを点々としたのかもしれません。またこれらの神社は清盛が福原遷都の際、各地の神様を勧請したと伝わります。

 安徳天皇は、荒田八幡神社にあった平頼盛邸の近くに住んでいたとされています。今、神社には「安徳天皇行在所趾」の石碑が設けられています。

 高倉上皇が厳島神社へ参詣した記録「高倉院厳島神社御幸記」には「あした(あらた)という頼盛の家」に寄ったという記述が残っています。

 清盛によって平安京から福原に御幸することになった安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇。その足跡と遷都の際に清盛が勧請した神々の社は、今も確かに神戸の街に残っています。