平氏の港「大輪田」の泊。

平氏の港「大輪田」の泊。

 今回は清盛の造った港「大輪田」の泊について現地を訪れた様子をレポートします。瀬戸内海と太宰府、中国(南宋)との貿易を積極的におこなっていた平清盛。出家して福原で生活を始めた平清盛は、大輪田の泊という港を整備し、太宰府までしか来れなかった外国船(唐船)を、畿内近郊まで入って来れるようにしました。

 その足跡は今も神戸市兵庫区の築地町や御崎本町あたりに残っています。清盛が福原に隠遁した翌年の嘉応2年(1170)9月、福原に宋人が来訪しました。この知らせを聞いた後白河法皇は京都から駆け付け対面したといいます。

 そして翌年には宋国から「日本皇帝」と「日本国太政大臣(平清盛)」宛に文書が届き、多くの土産が届けられました。このように清盛は福原隠遁後、積極的に外交を展開していきます。

 この往来をスムーズなものとする為、清盛は築港を進めてきました。築港は困難を極め、松王丸という人物が人柱の身代わりとなり、御経を書いた文書と共に海中に沈められたといいます。ここから人工の港は「経の島」という名がつきました。治承年間に朝廷を掌握した清盛は、大輪田泊の修築を国家的な事業とし、諸国から人夫や資材の調達を命令します。

 また清盛が丹精を込めて築いた大輪田の泊がある地には、清盛の遺骨を埋葬したという石塔が伝わっています。

 清盛が出家した御寺「能福寺」と「清盛塚」。兵庫大仏で有名な「能福寺」には平相国廟の石塔。「清盛塚」には鎌倉時代の弘安9年(1286)銘の十三層の石塔があります。

 治承5年(1181)閏2月。突如の高熱が清盛を襲い無念の内に亡くなりました。平氏一門の未来を憂いた清盛の想いを、今も石塔が慰めているかのようです。