~三浦半島の史跡(治承四年八月の三浦一族の戦い)をめぐる➀~

~三浦半島の史跡(治承四年八月の三浦一族の戦い)をめぐる➀~

2022年2月7日

 石橋山の合戦で源頼朝が敗北し土肥の山中を彷徨う時、頼朝と合流を試みた三浦一族は、平氏方の追撃を受けながらも、三浦半島に引き上げました。その際に起こった戦い「由比浦合戦(小坪坂合戦)と衣笠合戦」ゆかりの史跡を3回にわけてUPしていきます。

 まずは「鐙摺(あぶずり)城址」です。鐙摺城址は逗子市と葉山町の境に付近の葉山アリーナの近くにあります。いかにも武士と関わりの深そうな地名です。

 三浦一族を追撃したのは武蔵国秩父平氏の畠山重忠でした。由比浦合戦(小坪坂合戦)を含む三浦一族の一連の戦いは、吾妻鏡より延慶本平家物語の方が潤色されていないといわれているので、延慶本平家物語から合戦の推移を見ていきます。

➀三浦方は迫る畠山重忠等を鐙摺にある断崖絶壁の地に城を構え、迎え撃とうとしました。ここに籠るのは三浦義澄です。そして小坪坂上から由比浦方面を監視したのが和田義盛でした。

②畠山重忠の御嫁さんは三浦義澄の父、義明の孫娘だったので両家は親戚にあたります。このため畠山重忠は使者を遣わし、両者は争いを避け和議をしました。(ちなみになぜ三浦氏の縁者である畠山重忠が平氏方についたかというと、当時重忠の父は京都で平氏政権の下にいました。このため重忠は平氏方に味方をするしかなかったのです。しかし追撃の姿勢を見せ三浦が要害に籠ったので、兵を引き上げても追及されないと判断したようです)

③しかし和議の事を知らない鎌倉の犬懸あたりにいた三浦一族の和田義茂は戦だと思い、なんと畠山重忠方に突撃してしまいました。こうした行き違いでおこってしまったのが由比浦合戦(小坪坂合戦)です。

④和議が嘘だったと理解した畠山重忠は応戦します。この様子をみた和田義盛は、兵の少ない和田義茂を助けるため、背後から畠山勢に襲い掛かりました。挟撃された畠山重忠方は30余人が討ち取られ、三浦方も多々良太郎と次郎、郎党等が討死しました。

 この時に三浦義澄が城を構えた鐙摺城趾を訪れると急な斜面に驚きます。今は鉄製の階段があり上りやすくはなっていますが、当時は大変だったのではないでしょうか?頂上からは富士山や江ノ島・由比ガ浜・小坪などが見渡せます。鐙摺(あぶずり)が要害の地だったことがわかります。

 また頂上の一角には「伊東祐親入道供養塚」がありました。

なぜ伊東祐親の供養塚があるのか案内板を読むと、伊藤祐親の長女が三浦義澄の妻で両者は婚姻関係にあったため、後に頼朝方の反撃によって捕らえられた祐親は、三浦義澄に身柄を預けられます。そしてこの鐙摺(あぶずり)で首をはねられた為、ここに供養塚が築かれたようです。