由比浦合戦(小坪坂合戦とも)で平氏方を退却させた三浦一族ですが、体勢を立て直した畠山重忠は敗北の恥を晴らそうと、三浦一族の拠点があった衣笠・矢部を目指しました。これに対し三浦一族の和田義盛は、惣領の三浦義明に海路に面した要害の地「怒田」で抗戦するよう進言しました。しかし老将三浦義明は、先祖ゆかりの衣笠で散ることを選びます。
そこで今回は、和田義盛が進言したとされる「怒田城趾」が本当に要害だったのかを確かめるために訪れてみました。実際に怒田城趾は、鐙摺城趾と同じくこちらも絶壁にありました。危なすぎて金網が設置され落下防止対策が施されています。ただしこちらの絶壁は都市開発で山が削られたためだと案内板に書いてありました。眼下に京急電鉄が走り都市の日常を感じさせます。
かつては「怒田城趾」近くまで平作川と古久里浜湾が入り込んでおり、その名残といわれる「舟倉」という地名が残っています。この海路と電車の走る風景が、半島を庭のように行き来する三浦一族の姿と重なりました。
実際に戦闘にはならなかった怒田城ですが、城址を訪れると三浦半島の内陸と海路を結ぶ要害の地だったことが伝わってきます。