前回は、受領について、佐々木恵介氏の日本史リブレット「受領と地方社会」にそって前編を書いてみました。今回は続きを書いていきます。
租税
田率に課算された官物や、臨時雑役である雑役が、10C後半から11Cにかけて変化します。雑役が田率になり(官物率法)、官物化されていきます。これを受領は、名(みょう)といい、主に富豪の輩などが税を請け負う存在から徴収しました(負名体制)。
そして地方の諸所に納入された官物は、都周辺にあった受領の私的な倉庫、納所に輸送しました。納所で官物の管理・運営にあたったのが、弁済使と呼ばれる人々です。また納所は交易・売買など経済交流のセンター的な役割も果たしました。
こうしたシステムが、受領は朝廷に一定額の税納を果たせば、納入物以外で徴収したものは自らの富として蓄積できたといわれる理由です。納所と弁済使が私的蓄積の鍵を握る場所だったのです。
摂関政治と受領の関係
受領の任命方式は、朝廷の主要な官職を会議した「除目」でおこなわれました。「除目」は清涼殿に公卿が終結しおこなわれます。摂政が在任中は摂政の執務場所に集まりました。そして欠員の生じた官職を列挙した「大間書」に任官者を記入しました。受領の場合は「挙」という公卿の推挙があります。ただし恒例の除目と臨時の除目では異なりました。恒例の除目は、公卿各々が「大間書」に、推挙する人物の姓名を記入して、天皇に奏上します。臨時の除目では、受領任官を希望する申文が天皇から公卿に下され、公卿会議により数人を推挙して天皇に奏上しました。公卿は申文と、叙位任官の先例などを清書した勘文を基本的な資料としました。
受領任命の資格について、はじめての者は、六位蔵人、式部丞、民部丞、検非違使尉、外記、史を務めた後に叙爵した人々=新叙から選びます。すでに受領経験者を旧更といい、任中・得替(合格)など再任の資格をもった者から選びました。
以上のことから、受領人事に公卿の関与する度合いは、とても大きかったことがわかります。
受領に任命されると
受領に任命されると、天皇に罷申奏上という挨拶を行います。天皇は禄(おおうちき・衾)を受領に下賜しました。また任期満了の際には賞を与えることを伝え、任国を興隆するよう命じました。
受領は任国に赴任すると、「諸国申請雑事」という任国の政務について様々な申請を天皇に奏上します。申請の裁可は公卿会議(陣定)に下され、結果は天皇に奏上されました。
受領の任期を終えると、「受領功過定」という、任期中の審査が行われます。「受領功過定」は、功過申文を提出し、天皇から定の上卿に下されました。公卿は、主計寮・主税寮での公文審査と勘解由使大勘文という書類を基に、功過定がおこないます。会議では、中央への納入物、任国の官有財産、率分・齋院禊祭料・新委不動穀が審議の対象となりました。ここでの意見は天皇に奏上され、裁可の上、加階などの勧賞が与えられました。
こうした点からも、受領は公卿と結びつきを強める必要があり、献上品や内裏造営・寝殿造営を負担するなどの奉仕をおこない、優遇される関係を築くことに努めていったのです。
摂関・公卿にとっての受領
一方で摂関・公卿にとっても受領は、国家財政のみならず、各地に所有する封戸や荘園からの収入確保を担う存在でもありました。このため摂関・公卿は、自身の家司・家人を受領に任命するようになります(家司受領)。
これをさらに強めた形が、公卿知行国制でした。これは公卿が知行国主となり、一国の支配権を握り、子弟・縁者を受領申に申請し、家政に取り込む動きです。おもに11世紀初頭からはじまりました。