レキシノワVOL.02の3P~5Pでは、「武士の世のはじまり」について述べました。武士は皇族・貴族を祖とし、中央政府と強いつながりのもと、地方社会への関係を深めていきます。これを可能にしたのが、受領という納税請負の任務でした。今回と次回にわけて、この受領について、佐々木恵介氏の日本史リブレット「受領と地方社会」にそって理解をしていきたいと考えます。
受領とは?
本来受領とは、ある官職についた者が前任者から、官物の管理責任と権限を引き継ぐことを示す言葉でした(前任者から見た場合は、新任者を分付「ぶんぷ、ぶんづけ」するという)。
↓国司の交替時、頻繁に「受領」という言葉が用いられるようになり、
いつしか官物を受領する人自身、つまり国司の中で、現地の支配を行う最高責任者を「受領」と呼ぶようになりました。
国司とは、守(長官)、介(次官)、掾(判官)、目(主典)の四等官と、史生からなりました。史生は、各官司におかれた公文書作成に携わる職員をいいます。
国々は、大国・上国・中国・下国に分けられ、それぞれの四等官は、官位に差がありました。つまり大国の国守になりたくても、官位が下国相当の官位の場合はなれず、下国の国守にはなれるというものです。
大国:守=1名(従五位上)、介=1名(正六位下)、掾=大掾1名(正七位下)、少掾1名(従七位下)、目=大目(従八位下)、少目(従八位下)、史生3~5名
上国:守=1名(従五位下)、介=1名(従六位上)、掾=1名(従七位上)、目=1名(従八位下)、史生3~4名
中国:守=1名(正六位下)、―、掾=1名(正八位上)、目=1名(大初位下)、史生3名
下国:守=1名(従六位下)、―、―、目=1名(少初位上)、史生3名
このような構成でした。
国司の役割と変遷
国司は四年という任期があり交替してきました。任期のある国司に対して、伝統的支配力をもった郡司が国内の実態を永続的に把握します。国司は郡司の力を借りて、国内の徴税をおこない、都に届けることができたのです。しかし墾田永年私財法の発布により、郡司や大寺社・自立した農民が積極的に荒地を開発し、「富豪の輩」と呼ばれるようになると、彼らは私出挙を行うようになりました。律令制の変化が起き始めた段階です。国司は「富豪の輩」から富を集めるシステムが必要となったのです。
まず郡司任用の方式を変更します。国司は郡司候補者を選定し(国疑)、候補者は上京して式部省の審査を受けました。こうして郡司に伝統的支配を期待した段階から、納税など官人としての実務能力を期待する段階へと転換していきました。国司は候補者の実務能力を測るため、三年間雑務に試用することが可能になります。こうして8世紀末~9世紀前期の地方政治は、国司に一元化されていきました。
※綱領郡司…諸国から都へ租税を運ぶ責任者を、国司・郡司は綱領といい、一般公民は綱丁と呼びました。租税を都に届けると返抄(受領証)を受けました。
国司交替
冒頭で、本来受領は、官物の管理責任と権限を引き継ぐことを示す言葉と書きました。受領の引継ぎは、120日とされ、官倉の欠損などが監査されます。延暦十六年(七九七)に勘解由使を設置し、国司交替の際に作成される不与解由状を審査しました。そして勘判と呼ばれる判定を下しました。すべて完了すると解由(解由状)を前司に与えます。しかし国司の交替は円滑にいかず、前任と新任の間で争いが目立つようになり、新任は前任の任期中に生じた官物の欠損を列挙して、解由を発給できない旨の不与解由状を前任に交付しました。つまり勘解由使の実質的な任務は、不与解由状をめぐる前任・新任の主張を裁定し、諸国の官物の保全を図ることといえます。
※国司の中でも、守は受領の官とされ、掾・目は任用の人とされ、明確に区別されました。
税の流れ
元々、地方で徴収された税は、品目と数量を記した公文と一緒に都へ輸送されました。都の諸司で両方の照合が完了すると返抄(受領証)を発行されます。しかし未進が増えると現実的ではなくなり、仁寿二年(八五二)諸国からの貢調使は、たとえ未進があっても、公文勘会で確認されれば帰国してよいことになりました。つまり公文の審査が貢進物輸納と切り離されたといえます。
仁和四年(八八八)太宰大弐藤原保則の申請
- 現任の国司が前司以前の庸調物の未進と弁済する責務を免除してほしい
- その代わり前任以前の未進額の10分の1を毎年の輸納額に加算
- 任期中の庸調物の未進があった国司の解由は返却する
※寛平五年(八九三)には⑵の累積未進は年輸額の10分の1に。
こうした税の流れは、上記の藤原保則の申請からわかるように、国司官長の任期を単位とし、中央政府に対して一定額の租税輸納を請け負うものとなりました。これを請け負う存在が受領なのです。
受領と富豪の輩
地方で受領へ輸納を請け負ったのが、「富豪の輩」でした。一方、「富豪の輩」は院宮王臣家の従者・衛府の下級官人となり、中央とも結びつきました。こうした結びつきを背景に、受領の命令に従わない、「富豪の輩」があらわれるようになります。
延喜二年(九〇二)、受領は郡司・雑色人を国務につけ従わせる法的根拠を得ました。これを在庁官人制といいます。ただし在庁官人以外の支配を貫く人員の必要性がありました。このため「受領郎等」と呼ばれる、武力行使をするものや実務官僚を組織しました。
※実務官僚は特定の受領の下ではなく、数々の受領の郎等を務める人物があらわれます。
実務官僚の登場は、課税対象が人から土地へ移ったことも影響しています。受領は土地を知る必要があり、国図という田所に保管されていた地図形式の帳簿を基に、毎年、見営使という使者を諸所に派遣し、作付・収穫の状況を調査しました。しかし国図はかなり以前のものだったので、現実に即して調査を行う検田使と、自ら見て回り、帳簿をつけ(馬上帳)、集計を検田目録としてまとめました。
「受領」について、少し長くなったので、続きは後編にわけたいと思います。