以仁王の乱~治承三年十一月の政変 後編~

以仁王の乱~治承三年十一月の政変 後編~

2021年6月14日

 レキシノワVOL.03の3P~5Pでは、「以仁王の乱」について述べました。以仁王の乱は打倒平氏を各地の源氏に呼びかけ、頼朝が旗揚げをするきっかけとなり、源平合戦へつながる重要な出来事でした。この以仁王の乱を呼び起こしたのが、乱の前年におきた「治承三年十一月の政変」です。「治承三年十一月の政変」は、平清盛が軍事的圧力をもって関白藤原基房以下、反平氏貴族の解官を行いました。この「治承三年十一月の政変」によって、反対勢力を封じ込めた平氏政権は親平氏勢力で固めることに成功した反面、排除された人々の反感を社会の基層に残します。前回は「以仁王の挙兵につながった「治承三年十一月の政変」について少し詳しく述べました。今回はその続きを見ていきます。

 治承三年十一月の政変の具体的な原因

 清盛が突然の武力行使をおこなった原因は、具体的にどのようなものだったのでしょうか?一般的には次の三点があげられています。➀摂関家藤原基実の遺領をめぐる争い。②後白河院による平氏の知行国越前の収公。③摂関家支流藤原師家の権中納言昇進です。

 以下、この三点について詳述してみたいと思います。

➀摂関家藤原基実の遺領をめぐる争い

 治承三年の政変の起きた同年六月十七日、藤原基実(すでに亡くなっていた)の正室盛子が二十四歳の若さで没しました。盛子は清盛の女で、七歳の時に当時の関白藤原基実へ嫁ぎ、仁安二年(一一六六)七月に基実が急死すると、幼少の嫡子基通に代わって、基実の弟基房が関白となります。

通常であれば膨大な摂関家領や家の記録は、基通が成人するまでは、関白となった基房が預かるというのが筋でした。しかし平氏勢力は摂関家内部に食い込み、摂関家領に既得権益を形成していました。平氏の力を後ろ盾に地域支配をおこなう荘官や預所を含む各階層は、これまで通り平氏の後見を必要としていたのです。平氏は各階層の利権を保証する事によって、広範囲な協力を得て、これが平氏の強大な勢力を形成していました。このため摂関家領や家の記録を一時的とはいえ、基房に渡すわけにはいかなかったと考えられます。

これに対して基房側は、摂政・氏の長者になると、公事や摂関家を運営するために膨大な費用が必要でした。もともと摂関家領は、これらの費用を捻出するため各地に設定されたものが多く、摂政・氏の長者への就任=摂関家領・家の記録の伝領はセットだととらえていました。

このため清盛は、基房に佐保殿以下のいわゆる殿下渡領を渡すだけにとどめ、その他は基通が成人するまで盛子に預からせ、これまで通り摂関家内部に対する影響力を保持しようと試みました。

しかし盛子が亡くなると、基実の遺領をめぐって平氏・藤原基房による争いが再び表面化したのです。遺領は一旦、高倉天皇に伝領されますが、関白藤原基房の不満は募っていきます。基房は後白河法皇に働きかけ、摂関家領の引き渡しを画策しました。そして後白河法皇は院の近臣を倉預に補任し、遺領の管理を掌握しようとします。

こうした動きに清盛は激怒して、政変を強行したというのが、治承三年十一月の政変が起った理由の一点目です。

②越前国の収公

 治承三年七月二十九日、清盛の嫡子重盛が亡くなりました。そして重盛に与えられていた越前国の知行国主の座は、重盛の嫡子維盛に譲られます。ところが同年十月九日の除目で、後白河法皇は清盛に相談することなく、維盛から越前国を没収し院分国としました。さらに越前守を平通盛から、後白河院の近臣藤原季能に替えたのです。「山槐記」という当時の公家の日記には「大成怨」と記されています。

これが治承三年十一月の政変が起った二点目の理由です。

③藤原師家の権中納言昇任

 維盛が越前国を没収された同日の除目で、清盛が推挙していた従二位非参議右中将の藤原基通(十九歳)をさしおき、関白基房の子で八歳の正四位左中将の師家が、権中納言に昇進します。この除目は前日の夜に、師家だけを従三位に昇叙した上、翌日、権中納言に補任するという異例の措置がとられました。清盛は、治承三年の政変が起った理由の一点目で書いたように、藤原基実に女の盛子を嫁がせ、二人が亡くなった後は、基通を後見することでこれまで築いた利害関係を維持しようとしました。

 ところが七月二十九日の除目で、自身の推挙していた基通を超越して、基房の子師家が年少にもかかわらず、権中納言に任命されることは到底受け入れられるものではなかったのです。清盛にとって基房の後は、嫡流の基通でなければならず、師家の超越は、基房の後を師家が継承することを意味します。清盛としては見過ごすことのできない問題でした。

 これが治承三年十一月の政変が起った三点目の理由です。

三点に共通するもの

 以上、治承三年十一月の政変が起った具体的な理由を三点とりあげました。この三点に共通するのは、盛子の死によって、これまで平氏が築いてきた利害を、奪い返す動きが働いたということです。特に摂関家遺領の帰属問題は、平氏政権にとって権力基盤を崩壊させる可能性を含んだものでした。

 つまり「治承三年十一月の政変」は、清盛による平氏政権樹立を目指した未来志向の動きではなく、緊急な現状の課題に対する、強硬な解決手段だったのです。この強硬な解決手段が、結果的に示威的な行動と捉えられ、驕る平氏のイメージを強くしました。

政変によって確立した体制

 後白河院政を停止した平氏政権は、高倉天皇の新政を正当な統治権として推し進めます。高倉天皇の勅令を操作することで、清盛の意志は世の中に強く反映しました。そして平氏政権と密接に結びつく摂関家嫡流の藤原基通を関白・内大臣・氏の長者とし、廟堂を掌握しました。こうした体制に反発したのが、翌年の以仁王の挙兵となります。