鎌倉と河内源氏 源為義の出自について 

鎌倉と河内源氏 源為義の出自について 

2021年4月19日

 前回は、源義朝の父であり、頼朝の祖父にあたる為義の生涯を簡単にまとめました。そこで、為義の出自について興味深い論文があると述べました。この論文「源義忠の暗殺と源義光」佐々木紀一氏(山形県立米沢女子短期大学紀要45、平成二十一年十二月)を基に源為義の出自をまとめていきます。

 「後三年合戦」後の、河内源氏の動向を簡単に書きだすと、以下のようになります。

寛治五年(一〇九一)六月十二日、源義家、弟義綱と紛争。随兵の入京を禁止される。

承徳二年(一〇九八)十月二十三日、源義家正四位下となり昇殿を許される。

康和三年(一一〇一)七月、源義親、太宰大弐大江匡房に住民の殺害と公物収奪の罪で告発される。

嘉承元年(一一〇六)七月、源義家死去。

嘉承二年(一一〇七)十二月十九日、平正盛に源義親追討宣旨が下る。

天仁元年(一一〇八)一月、平正盛が源義親を追討し、但馬守に遷任(以後、瀬戸内の熟国の受領を歴任)

天仁二年(一一〇九)二月、源義家の四男義忠が殺害される。義忠殺害の犯人として源義綱一族が粛正される。義綱は佐渡へ流罪の後、殺害される。

 義家の嫡子である義親は、父の生前に乱行を働き、父の死後、平忠盛によって追討されました。義家は義親を廃嫡した後、義忠を後継者にたてます。しかし義忠も天仁二年(一一〇九)二月に源義綱によって殺害されました。そして義綱は為義のよって討たれたといいます。

このあたり同時代の記録がなく、事件の詳細は不明です。しかし「尊卑分脈」に、義忠が源氏の棟梁に就くことを、叔父の義光が妬み暗殺したと書かれています。この「尊卑分脈」の記事を佐々木氏は信頼が置けないとして、別の角度からこの事件について述べ、その中で、為義は義親の子ではなく、義家の子だとしています。

「尊卑分脈」の系図=通説

だと河内源氏の系図はこのようになります。

これに対して佐々木氏は、北酒出本「源氏系図」(秋田県立公文書館佐竹文庫(宗家)蔵本)をとりあげています。

また当時の摂関家の大殿、藤原忠実の記した「殿暦」では、天仁二年(一一〇九)二月十七日条に「義家朝臣四郎為義」と書かれている事や、忠実の子の頼長が記した「台記」康治元年八月三日条に「義家子」と見えることから、為義は義家の子だと断定しています。佐々木氏は「尊卑分脈」の記述を、為義を義家の嫡子である義親の子とすることで、為義―義朝-頼朝の流れに、源氏の正嫡を示す作為があったとしています。

 このように源為義は河内源氏庶流の可能性があります。為義の生涯における苦労は、ここに原因があるのかもしれません。そして河内源氏の凋落と反比例するかのように、伊勢平氏はかつてない隆盛を極めていきます。