鎌倉と河内源氏 源為義

鎌倉と河内源氏 源為義

レキシノワ二号は、「武士の世のはじまり」について特集しました。鎌倉幕府を樹立する鎌倉ゆかりの武将、源頼朝の祖先を例に、発展の段階を辿りました。この発展の段階は、ターニングポイントとなる人物と合戦があります。今回は、源為義をとりあげます。

 源為義は通称、六条判官・陸奥四郎と称しました。父は八幡太郎義家の子、義親とされています。しかし源為義の出自について義親の子ではないとする、とても興味深い論文「源義忠の暗殺と源義光」(佐々木紀一氏)があります。この為義の出自については次回に述べるとして、今回は為義の生涯を簡単に書いておきます。

 前九年合戦や後三年合戦で目覚ましい活躍を遂げた八幡太郎義家ですが、晩年は弟義綱との対立や、子息義親の乱行に悩まされます。

 三男の義忠に家督を譲った義家は、嘉承元年(一一〇六)に68歳で亡くなりました。

 義家死後、義親や義綱・義忠が一族内で争い、河内源氏は勢力を後退させます。変わって力を持ったのが平正盛率いる伊勢平氏です。

 為義は14歳で、叔父義綱を追討した功績により、左衛門少尉に任命されます。

 その後、白河院に近侍し保安五年(一一二四)には、洛中の警察機関である検非違使に任じられ、長くこの職を務めました。

 しかし院の信頼と日宋貿易を積極的におこなう伊勢平氏は、順調に昇進を重ね、河内源氏との差は広がるばかりでした。これは、ただ単に一族の内紛で勢力を後退させた河内源氏という流れの面だけではなく、為義自身や郎党による狼藉行為も原因の一つだといわれています。

 やがて長男の義朝が坂東へ下向し、次男の義賢を嫡子に立てた為義ですが、義賢が失策を犯し罷免されると、院から摂関家に関係性を移していきます。

 関白忠実・頼長父子の警護や荘園の管理を担うようになると、左衛門大尉となり、検非違使への復帰を果たしました。

 ちょうどこの頃、義朝が坂東から戻り、妻の実家の熱田大宮司家を通じて、鳥羽法皇に接近していきます。こうして摂関家と結ぶ為義と、院に仕えた義朝は、親子でありながら次第に対立していきました。

 やがて勃発した保元の乱では、為義は一族を率いて崇徳上皇方につきます。義朝は後白河天皇方につき、乱後に父や弟達を捕らえます。義朝は自らの勲功にかえて父の助命を嘆願しますが、許されませんでした。そして為義以下の処罰は、義朝自らがおこなうことになります。こうして為義は享年61歳で亡くなりました。