河内源氏と東国~平忠常の乱~後編。

河内源氏と東国~平忠常の乱~後編。


前回は源頼信が平定した「平忠常の乱」前編について述べました。今回は続きを見ていきます。

平直方による追討軍

忠常の政治工作もむなしく、八月五日に平直方による追討軍が派遣されました。しかし上総国を掌握している忠常の追討は思うようにはいかず、翌長元二年(一〇二九)二月五日、太政官符によって東海・東山・北陸諸国と追討使に対して、忠常追討の催促がおこなわれました。さらに二月二十二日には、上総介に任命された維時が上総国へ向けて出発しました。これらの動きと同時に、坂東諸国の国司が交替され、忠常包囲網が形成されました(源頼信も同年に甲斐守に任命されています)。

朝廷による攻勢に対して忠常は、翌長元三年三月二十七日に安房守藤原光業を追い払いました。そして忠常を恐れた光業は、国印と正倉の鍵を棄て平安京に逃げ帰ります。「小右記」の同日条には、平直方が改めて忠常追討の官符を求めたことに対して、朝廷が却下したことを記しています。却下の理由は、忠常の兵の減少や忠常の出家・忠常が講和の意志を示していることを挙げていますが、朝廷はこれ以上、反乱の鎮圧を平直方に任せるつもりはなかったのでしょう。

源頼信の登用

 同、長元三年(一〇三〇)七月八日。朝廷は平直方を召還し、源頼信に忠常を追討させることにします。これは先述した頼信と忠常の主従関係を利用して、事態の解決を図ったと考えられます。翌四年四月、頼信から忠常降伏の報告が朝廷へ届きました。さらに来月には忠常と子息の二人が入京するという報告が入りました。忠常は連行途上の美濃国野上において亡くなったため、斬首されました。六月十六日忠常の首を持った頼信が入京すると、同月二十七日の陣定において、忠常の子息に対する処分は行わないこと。頼信に勲功の賞を与えられることが決まりました。翌年二月に頼信は美濃守に任命されます。こうして三年にわたる平忠常の乱は収束をむかえました。

長元元年(一〇二八)五月、平忠常の乱が起こる。

六月五日、平忠常・常昌追討の宣旨が下される。

六月二十一日、平直方・中原成道が追討使・追討使次官に。

長元三年(一〇三〇)七月八日、平直方の追討使を解任。

九月二日、源頼信を追討使に任命。


長元四年(一〇三一)四月、源頼信が平忠常を降伏させる。

平忠常の乱の与えた影響

最後に、平忠常の乱についてまとめておきます。

 平忠常の乱とは、良文流平氏の忠常が富豪層の勢力を背景に、国司・国衙に対して起こした戦いでした。これに良文流平氏と貞盛流平氏の坂東における覇権争いが絡みました。さらに坂東諸国の国司等(受領)や中央貴族の政治的対立も含んだ、広範囲な闘争だったのです。

 結果、貞盛流平氏による上総・下総・安房・武蔵への覇権は実現せず、忠常の子息に対する処分が保留されたことで、良文流平氏も残りました。そして源頼信が抗争を治めたことで、坂東平氏への調停・仲介者としての立場が、鮮明になった乱だといえるのではないでしょうか。