河内源氏と東国~平忠常の乱~前編。

河内源氏と東国~平忠常の乱~前編。

 レキシノワVOL.02の3P~5Pでは、「武士の世のはじまり」について述べました。武士は、臣籍降下→中央軍事貴族→武家の棟梁と発展していきます。この流れで鎌倉に本格的な武家政権の樹立へと繋がるのです。

さて源頼朝は河内源氏の流れを組みますが、河内源氏はもともと平安京で朝廷や摂関家に近侍する一族でした。河内源氏が東国と深いかかわりをもったのは、源頼信が上総・下総・安房という現在の千葉県で起きた平忠常の乱を治めたことをきっかけにします。源頼信については、前回の投稿で簡単に紹介をしました。そこで今回と次回は、頼信が平定した「平忠常の乱」について述べていきます。

平忠常の乱以前

平忠常の乱は一般的には長元元年(一〇二八)に、平忠常が安房国の国守平維忠を焼き殺したことが始まりとされています。しかし鈴木哲雄氏「平将門と東国武士団」によると、長和五年(一〇一六)以前に、源頼信と平忠常は戦っていたと述べています。源頼信は常陸介として常陸国へ赴任しますが、上総・下総の平忠常(良文流平氏)が朝廷へ租税を納めずにいたので、これを追討するために侵攻します。「今昔物語集」によると、舘の者共(頼信の私的兵力)+国の兵共(国衙の兵)や常陸大掾の平維基等の軍勢であったといいます。

かつて香取社や鹿島社のある一帯は、内海が広がり、船による交易と往来が盛んでした。平忠常の舘はこの内海南岸に面した谷奥の高台に築かれていました(大友城)。大友城は現在の千葉県東庄町に「大友城跡」として史跡保存されています。また忠常の舘は、千葉市の「大椎城跡」という説もあります。

頼信の侵攻に対して忠常は、鹿島・香取両社前の渡に属する船をすべて隠し、頼信が渡海できないようにしました。困った頼信ですが、内海の中に浅瀬があることを知り、馬でもって忠常の舘に迫りました。まさか頼信が現われることはない、と思っていた忠常は驚き、臣従の作法である名符(名前)と怠状(詫び状)を差出し、降伏しました。このことから平忠常の乱が始まる前に、頼信と忠常の間には、主従関係が結ばれていたと見られています。

平忠常の乱のはじまり

長元元年(一〇二八)、平忠常が安房国の国守平維忠を焼き殺したことが朝廷に伝えられました。これは良文流平氏(忠常)と貞盛流平氏(維忠)の争いが関係している、と指摘されています。

この報告に対して朝廷では、六月五日に忠常と子の常昌(将)等を追討する宣旨が下されました。さらに十一月の陣定(じんのさだめ)では、源頼信が追討使にふさわしい、という意見があったにもかかわらず、検非違使の平直方と中原成通が任命されました。平直方は貞盛流平氏の嫡流にあたり、この事件が良文流平氏と貞盛流平氏の争い、という図式があてはまります。また平直方の任命には、父維時による関白頼通への働きかけがあったとされます(維時は翌年、忠常が拠点とする上総国の上総介に任命されています)。

この頃、平忠常も主君と仰ぐ内大臣藤原教通へ、朝廷に対して反乱の意志はないことを伝え、追討使派遣中止の工作をおこなっていました(「小右記」長元元年七月十五日)。

この続きは次回。