レキシノワ二号は「武士の世のはじまり」について特集しました。この中で鎌倉幕府を樹立する鎌倉ゆかりの武将、源頼朝の祖先を例に発展の段階を辿りました。この発展の段階は、ターニングポイントとなる人物と合戦があります。そこで何回かにわけて、このサイトで詳述していきたいと思います。最初は、河内源氏の祖「源頼信」安和元年(九六八)~永承三年(一〇四八)をとりあげます。
源頼信は、安和元年(九六八)に、清和源氏の源満仲の三男として生まれました。母は藤原元方の娘か藤原忠の娘といわれています。兄に摂津源氏の祖頼光、大和源氏の頼親がいます。兄たちは、平安京にあって貴族社会で生きていきますが、頼信は関白藤原道兼に仕える傍ら、諸国の受領を歴任して、地方に活躍の場を求めました。
そして先祖ゆかりの鎮守府将軍にも任命され、長元四年(一〇三一)に上総国で起った平忠常の乱を、嫡子頼義と共に平定し、東国における河内源氏進出のキッカケをつくりました。源満仲の三男で、庶流という立場だった頼信が、後に清和源氏の嫡流を凌ぐ、河内源氏興隆の基礎を築いたターニングポイントだといえます。
妻は下級女官で、嫡男に源頼義。次男に源頼清(信濃源氏の祖)。別の妻から三男源頼季。四男源頼任。五男源頼政。女子に源為満室を儲けました。
晩年、河内守に任命され、河内国石川郡壺井庄(現在の羽曳野市)香炉峰に館を建てました。そして付近に観音堂を建立し、永承三年(一〇四八)に亡くなりました。八〇余歳という、当時としては長寿な人生を全うしました。
主な官歴は、
寛和三年(九八七)左衛門少尉。
長保元年(九九九)上野介。
寛仁三年(一〇一九)石見守。
治安三年(一〇二三)鎮守府将軍。
長元元年(一〇二八)甲斐守。
長元四年(一〇三一)従四位下。
長元五年(一〇三二)美濃守。
長元九年(一〇三六)相模守。
永承二年(一〇四七)従四位上。河内守。
です。