鎌倉と河内源氏 源義朝

鎌倉と河内源氏 源義朝

 源義朝は保安四年(一一二三)、源為義の長男として生まれました。母は白河院の近臣藤原忠清の娘で、異母弟に義賢、義憲、頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝、為仲、行家等がいます。

義朝が生まれた頃の河内源氏は、八幡太郎義家以降、一族の内紛と問題行動により、凋落の一途を辿っていました。

こうした状況から義朝は、少年時代に先祖ゆかりの東国へ下向し、上総氏等の許で成長します。義朝の東国下向については、為義に廃嫡されたという説もあります。いずれにせよ祖先の源頼信が平直方より譲られた鎌倉を含む、三浦半島から房総半島の河内源氏ゆかりの地で庇護されたのは、後に源頼朝が石橋山の合戦で敗れ、逃れたルートと重なり興味深いです。

 義朝に代わって平安京で、為義の嫡子として朝廷に仕えたのが、異母弟の義賢です。義賢は木曽義仲の父で、親類同士の争う火種をここにみることができます。

 若くして独力で生き抜く道しか無かった義朝は、三浦氏や波多野氏と婚姻関係を結び、相模国で勢力を築きます。三浦義明の娘との間には長男の義平が、波多野氏の娘とは次男朝長を儲けました。そして鎌倉の亀谷に館を構え、東国の拠点とします。こうして南関東で力をつけた義朝は、義平を鎌倉に残し、中央政界へ飛び込んで行きました。

 活動の拠点を平安京に移した義朝は、熱田大宮司で院近臣としても活躍した藤原季範の娘、由良御前との間に、嫡男の頼朝を儲けます。そして妻の実家とのつながりから、鳥羽院や摂関家の藤原忠通と接触し、仁平三年(一一五三)に従五位下・下野守に任命されました。こうして受領となった義朝は、検非違使にすぎない父の為義を超越したのです。東国の荘園管理と影響力を期待されての抜擢でした。

 義朝の躍進は、父為義との対立を深めることにもなります。為義は義賢を東国に下向させ、義朝の勢力に対抗しました。しかし義賢は鎌倉にいた義朝の長男義平に討たれ、東国における河内源氏の勢力は義朝に一元化されていったのです。

 鳥羽院や藤原忠通に接近した義朝と、藤原忠実・藤原頼長の摂関家に近侍した為義は、皇統と摂関家の分裂がまねいた保元の乱で激突します。

 後白河天皇派として参戦した義朝は、坂東で実戦を重ねた経験を糧に、積極的な戦闘を繰り広げました。義朝は「(坂東での)合戦では朝家の咎めを恐れ、思うようにならなかったが、今度の戦は追討宣旨を受け、心置きなく戦う事が出来る」と勇んで出陣します。そして合戦の状況を逐一報告するなど、目を見張る戦いぶりを披露しました。戦後、義朝は自らの手で父為義や異母弟等を斬首せざるを得ず、「ヲヤノクビ切ツ」と世の誹りを受けたといいます。

 保元の乱の後、朝廷の政治は実務官僚の藤原信西が主導していきました。信西は朝廷の復興を勢力的におこないましたが、反対派も形成されはじめます。源義朝が頼みとした藤原信頼もその一人でした。

 平治元年(一一六〇)信頼と義朝は、京都で最大の武力を擁していた平清盛が、熊野詣に赴いた隙を突いて挙兵しました。平治の乱の勃発です。信頼と義朝は信西の殺害を遂げ、二条天皇などを抱えることに成功します。しかし反信西派は分裂し、二条天皇・後白河上皇・摂関家が、帰京した清盛の邸宅に逃れると、信頼と義朝は孤立してしまいました。

 この戦いに敗れた義朝は、関東に落ち延びる最中、尾張国で家人の長田忠致に殺害され、その生涯を終えました。