毛越寺

毛越寺

奥州藤原氏2代基衡

「果福は父をすぎ、両国を管領す」

後に、源頼朝に奥州藤原氏の歴史を語った豊前介実俊は、基衡をこのように評しました。

2代基衡は平泉の街を南に広げ、都との関係を深めていきます。その象徴が「毛越寺」でした。

毛越寺は金堂の円隆寺を中心に、大泉が池の広がる浄土庭園です。毛越寺の南大門前から真東に東西大路を通し、3つの南北路を直交させました。

付近には財物を収蔵する倉が立っていた倉町。高床式の倉庫建築である高屋。牛車をとめる車宿(くるまやどり)などの跡が発掘調査で見つかっています。2代基衡の時代に、毛越寺の門前で商業が発展したことをうかがわせます。

金堂の円隆寺跡

 毛越寺の御堂や御塔は四十余り、僧坊は五百余りもあったといいます(吾妻鏡)。平泉最大の大伽藍で、その本堂が金堂「円隆寺」でした。

 堂内はたくさんの金銀、紫檀や赤木などの南国の素材も豊富に使い、鮮やかに飾りました。

 本尊は丈六の薬師如来像で、取り囲むように十二神将を配置しました。これらは運慶の作といわれています。仏様や神将像の目に、初めて玉を使った作例でした。

 そんな特別な場所の中心に、僕は立つ‼️ (まわりは木ばっかりですが、、、😅

2代基衡→3代秀衡の「嘉祥寺跡」

 奥州藤原氏2代基衡が作りはじめ、没後に3代秀衡が受け継ぎ完成させた、バトンタッチ🏃🏻の御堂です。ちなみに奥州藤原氏の家督継承でもっともスムーズだったのが2代基衡→3代秀衡。まさに嘉祥寺はその象徴です✌️

吾妻鏡によると、四方の壁と三面の扉は、法華経第二十八巻の内容が彩り鮮やかに描かれていました🌈

本尊は丈六の薬師如来です。建物は金堂の円隆寺とほぼ同じ大きさの御堂だったといいます。

そんなありがたい場所で僕は今、四方の法華経に囲まれる⁉️(木しか見えませんが、、、)