レキシノワVOL.02の3P~5Pでは、「武士の世のはじまり」について述べました。武士は、臣籍降下→中央軍事貴族→武家の棟梁と発展していきます。この流れによって源頼朝が鎌倉に、本格的な武家政権を樹立した段階へと繋がるのです。
さて源頼朝は河内源氏の流れを組みますが、河内源氏はもともと平安京で朝廷や摂関家に近侍する一族でした。河内源氏が東国と深いかかわりをもったのは、源頼信が上総・下総・安房という現在の千葉県で起きた「平忠常の乱」を治めたことをきっかけとします。そして頼信の嫡子頼義が東北地方で起こった安倍氏の反乱(前九年合戦)を平定し、征夷に携わる武門の家という地位を築きました。続いて頼義の子、源義家が「後三年合戦」武勇を示し、その名を天下に轟かせました。さらに頼朝の祖父、為義と父、義朝が戦った「保元の乱」は、一門の対立・父子の分裂という問題を結果的に解消しました。そこで今回は、河内源氏嫡流の座を勝ち取った義朝が、今度は中央政権の舞台で主役的役割を果たした「平治の乱」について述べていきます。
保元の乱後
王家・摂関家の分裂が、それぞれに連なる勢力を巻き込み引き起こした「保元の乱」は、後白河天皇方の圧勝で終わりました。この戦いで社会の分裂は解消されたように見えましたが、後白河天皇はあくまで守仁(二条天皇)即位までの中継ぎという存在でした。新たな対立の火種は燻ぶり続けていたのです。
藤原信西の政治
保元の乱後の政治は、実務官僚の藤原信西の主導で、朝廷の再建が進められました。信西は迅速かつ信頼のおける政治運営をするために、子息や縁者を政権の要職に就けました。こうした急速で偏った政治は、社会課題の早期解消に成果をあげる一方、反対派の形成を生みます。
藤原信頼の台頭
反対派として有名な人物が藤原信頼です。藤原信頼は後白河院の近臣・受領層から勢力を伸ばしました。信頼は後白河上皇の寵愛を受け、未曽有右の昇進を遂げていきます。中央政権で躍進するのと同時に、武蔵守となった信頼は東国社会と結びつきを強め、南関東に地盤を築く源義朝と繋がりました。
また藤原信頼以外にも信西の政治に反対する勢力がいました。二条天皇の外戚である藤原経宗・藤原成親・藤原惟方等です。
こうして反信西勢力が形成され「平治の乱」が勃発します。
平治の乱
平治の乱は、京都における最大武力を保持する平清盛が熊野詣で、京都を留守にしている最中に起こりました。反信西の兵を挙げた藤原信頼と源義朝は、後白河上皇と二条天皇を取り込み、目的の信西殺害を成し遂げます。挙兵に応じた信頼・義朝派は恩賞に預かり、この戦いが初陣であった源頼朝も右兵衛権佐という官職を授かりました。こうして反信西派による政治が進んでいくかに見えましたが、平清盛の帰京と姿勢が新たな局面へと舞台を移していきます。
平清盛の帰京
熊野詣から京都へ戻った平清盛は自邸に入り、まずは情勢の把握につとめました。熊野詣の帰りに対源義朝の軍事行動をおこなった平治物語の描写は、創作だと考えられています。信頼・義朝は上皇・天皇の確保により、清盛が反抗するとは考えていなかったようです。しかしここで清盛も予期しなかった出来事が起こりました。反信西という目的で結びついた藤原経宗・藤原惟方が二条天皇を脱出させ、清盛邸へと逃げ込んできたのです。彼らは反信西という目的を遂げると対立し始めたのでした。さらに摂関家の藤原忠通・基実も清盛邸に駆け込むと、信頼・義朝を討伐の大義名分が転がり込んできた清盛は、軍事行動を起こす決心をしました。
反乱軍となった信頼・義朝
天皇・摂関家を取り込み官軍となった清盛は、反乱軍に転落した信頼・義朝方と戦い破りました。信頼は捕まり、後に処刑されました。義朝は東国で再起を図るため、義平・朝長・頼朝等の子とともに落ち延びます。頼朝は途中で父や兄とはぐれ捕らえられました。義朝は尾張国でかつての家人長田忠致に殺害され、首は京都へ送られます。生きたまま京都へ護送された頼朝は、池禅尼の懇願によって、死一等は免ぜられ伊豆国へ流罪となりました。
こうして平治の乱は終わり、結果的に平氏に反抗できる勢力がいなくなりました。平治の乱により東国で地盤を築いた河内源氏は壊滅し、伊豆国でおよそ二十年もの間、頼朝は流人生活を続けることとなります。