レキシノワ二号は「武士の世のはじまり」について特集しました。この中で鎌倉幕府を樹立する鎌倉ゆかりの武将、源頼朝の祖先を例に発展の段階を辿りました。この発展の段階は、ターニングポイントとなる人物と合戦があります。そこで何回かにわけて、このサイトで詳述していきたいと思います。前回までは、河内源氏の祖「源頼信」と「平忠常の乱」について述べました。そこで今回から数回にわけて頼信の子、「頼義」永延二年(九八八)〜承保二年(一〇七五)と「前九年合戦」について書いていきたいと思います。
源頼義は、永延二年(九八八)に源頼信の嫡子として生まれます。母は下級官人の娘、修理命婦。弟に頼清・頼季がいます。
頼信は長男として生まれましたが母の身分が低く、なかなか昇進できずにいました。これに対して弟の頼清は才智に優れ、兄よりはやく昇進を重ねていきました。
弟に先を越された頼義ですが、武勇には優れ、「中外抄」という院政期の聞書集には、頼信が関白藤原頼通に子息を推挙する際、頼義を武者に、頼清を蔵人として、推したことが記されています。
長元元年(一〇二八)、頼信と主従関係を結んでいたという平忠常が、上総国で反乱を起こすと、忠常追討の大将を更迭された平直方にかわり、父とともに坂東へ下向しました。
そして見事に反乱を治めると、長元九年(一〇三六)相模守に任命されます。
東国に勢力を伸ばした頼義は、平忠常の乱の鎮圧に失敗した桓武平氏嫡流筋の平直方の娘を娶り、鎌倉の邸宅や所領を、直方から譲り受けました。河内源氏と鎌倉の関係がはじまった瞬間です。直方の娘との間に、義家、義綱、義光という後にそれぞれが武勇を競う子供達を儲けました。
河内源氏が南関東に基盤を築き始めたこの頃、坂東の北の奥州では、陸奥守が頼義の弟頼清から藤原登任に代わりました。すると奥州の豪族安倍氏は、新たな国司登任と対立するようになります。
登任は玉造郡鬼切部で安倍氏に敗れると、陸奥守を罷免されました。そして後任の陸奥守に、抗争の鎮圧を期待された頼義が任命されます。
陸奥守となった頼義は、さらに祖先ゆかりの鎮守府将軍にも就任します。そして陸奥国の政庁である多賀城に入ると、頼義の威勢に圧倒された安倍頼良は、恭順の意を表しました。さらに頼義を憚り頼良(よりよし)から頼時(よりとき)と改名します。
こうして奥州の抗争は治まったかにみえましたが、頼義が陸奥守の任期満了である天喜四年(一〇五六)に事件は起こりました。
頼義は頼時より任期満了に伴い、惜別の饗応を受け、陸奥の鎮守府から国府へ帰路につきました。しかし途中の阿久利川の側で野営をした際、何者かによって陣を荒らされる騒ぎが起こります(阿久利川事件)。
事件は頼時の嫡子貞任の仕業だと、陸奥権守藤原説貞の子、藤原光貞から聞いた頼義は、頼時に貞任を引き渡すよう求めました。これに対して頼時は抵抗の姿勢を示し、兵をあげたのです。
頼義は頼時が陣を敷く、衣川の柵に兵を差し向けました。次いで朝廷も頼時追討の宣旨を下しました。こうして奥州は再び騒乱の地となりました。この前九年合戦については、次回、詳しく述べます。
奥州の争乱を鎮圧した頼義は、康平六年(一〇六三)安倍貞任等の首を掲げて平安京へ戻りました。この合戦の賞として、正四位下伊予守に任命されました。伊予国は諸国の中でも収入の多い国(熟国、温国)でした。朝廷は頼義の功績を高く評価していたのです。
伊予守の任期を終えた頼義は、やがて出家して、これまでの合戦で亡くなった敵味方の為に「耳納堂」という寺堂を建て、供養につとめたといいます。頼義の墓は、河内源氏の菩提寺、通法寺跡(大阪府羽曳野市)にあります。
主な官歴は、
長元九年(一〇三六)相模守
永承六年(一〇五一)陸奥守
天喜元年(一〇五三)鎮守府将軍
天喜四年(一〇五六)陸奥守再任
康平六年(一〇六三)正四位下。伊予守。
治暦元年(一〇六五)出家(信海)
承保二年(一〇七五)卒去