河内源氏と東国~前九年合戦~前編。

河内源氏と東国~前九年合戦~前編。

 レキシノワVOL.02の3P~5Pでは、「武士の世のはじまり」について述べました。武士は、臣籍降下→中央軍事貴族→武家の棟梁と発展していきます。この流れによって源頼朝が鎌倉に本格的な武家政権を樹立した段階に繋がるのです。

さて源頼朝は河内源氏の流れを組みますが、もともとは平安京で朝廷や摂関家に近侍する一族でした。河内源氏が東国と深いかかわりをもったのは、以前に述べた源頼信が上総・下総・安房という現在の千葉県で起きた平忠常の乱を治めたことをきっかけにします。そして前回は、頼信の嫡男頼義について述べました。そこで今回と次回に分けて、源頼義が平定した「前九年合戦」について述べていきます。

奥羽という地域

奥羽(現在の東北地方)は、太平洋側に陸奥国、日本海側に出羽国があり、陸奥国の国府は多賀城(多賀市)、鎮守府が胆沢城(いざわじょう)(奥州市水沢区)に置かれていました。

奥羽の北方は奥六郡(岩手・志波・稗貫・和賀・江刺・胆沢)と称し、前九年合戦の安倍氏は奥六郡の郡司であり、蝦夷の長でした。

出羽国の仙北三郡(山本・平鹿・雄勝)は、雄物川のつくる横手盆地(秋田県大仙市・横手市・湯沢市周辺)に位置し、清原氏の本拠地でした。

前九年合戦のはじまり

前九年合戦を記した「陸奥話記」では、安倍氏の子孫は「漸く衣川の外に出づ、賦貢を輸さず、徭役を勤むこと無し」と記しています。万寿五年(一〇二八)以降、鎮守府将軍の補任が中断すると、鎮守府の実権は、筆頭在庁であった安倍氏が掌握していました。長元九年(一〇三六)には頼良の父忠良が陸奥権守に任命されました。これによって安倍氏は奥六郡から国府付近まで勢力を伸ばしていた様子がうかがいしれます。

永承五年(一〇五〇)新たに陸奥守となった藤原登任(なりとう)に対して、安倍頼良が抵抗の姿勢を見せます。登任は翌六年、秋田城介(あきたじょうのすけ)平重(繁)成を先鋒に、安倍頼良を攻め込みます。しかし鬼切部で大敗を喫しました。これに朝廷は驚き、同年、源頼義を陸奥守に任命し、追討の将軍としました。

陸奥国へ赴いた頼義は、陸奥国の国府(多賀城)から衣川の関を越え、鎮守府(胆沢城)に着任しました。頼義の到着に安倍頼良は帰服の意を示しました。これは前年の永承七年(一〇五二)五月、上東門院藤原彰子(藤原道長の長女で一条天皇の中宮)の病気平癒祈願の「天下大赦」がおこなわれたのが関係しています。この大赦で安倍頼良による陸奥国の国守藤原登任に対して交戦した罪は、許されることになったからです。罪を許されることになった頼良は、源頼義に帰順して「よりよし」の名を憚り、頼時と改めました。

阿久利河事件

こうして奥羽における抗争は収まり、源頼義は天喜元年(一〇五三)には鎮守府将軍を兼任しました。しかし陸奥守の任期を終える天喜四年(一〇五六)に事件は起こりました。  

頼義は国務のため多賀城から胆沢城へ入り、管内を巡検していました。この時、安倍頼時は「首を傾けて給仕し、駿馬・金宝の類、悉く幕下(将軍)に献り(たてまつり)、兼ねて士卒に給う」姿勢を見せていました。帰路についた頼義は、阿久利河で夜半にあるものから相談を受けました。内容は、陸奥権守藤原説貞(ときさだ)の子、光貞・元貞らが野営をしていたら、何者かに人馬を殺傷されたといいます。

頼義が光貞を召して、誰の仕業かと問うと「頼時の長男貞任が、私の妹を娶りたいという申し出を断ったため、恥辱を恨み、犯行におよんだと思われます」と答えました。頼義は貞任を召喚しようとしますが、頼時は抵抗の姿勢を示し、衣川の関を閉じ、奥大道を封鎖して、戦闘の準備をしました。これに対して頼義は大軍を差し向け、再び奥羽における戦乱が再開しました。

この戦いの頼義方には、安倍頼時の女婿にあたる藤原経清と平永衡が属していました。永衡は前陸奥守藤原登任に従い陸奥国へ下向した者で、登任の登用により伊具郡を領有しました。しかし頼時の女を娶ると、鬼切部の戦いでは登任を裏切り頼時に与しました。そして今、頼時に背き頼義に従っている。頼義はこの者を信用のおけない人物として斬殺します。この処置に同じ頼時の女婿にあたる藤原経清は、明日は我が身と感じ、頼時に従うことを決意しました。

またこうした情勢に陸奥国の新たな国司が辞退を申し出たので、頼義の再任が決まりました。

安倍頼時の戦死

 有力な豪族藤原経清が敵方に寝返り、苦境に陥った頼義は、事態を打開するため、翌天喜五年(一〇五七)、頼時の従兄弟で、津軽地方に勢力を伸ばしていた安倍富忠を味方に引き入れました。頼義の攻勢と一族に離反者の出た頼時は、慌てて自ら津軽地方へ向かいます。しかし富忠方の伏兵の攻撃に遭い、深い傷を負い鳥海柵へ退却しました。頼時はこの傷がもとで、鳥海柵において陣没しました。

 九月、頼義は太政官に頼時討伐の様子を言上しました。そこには、

・家臣の金為時と下毛野興重らを北奥羽に遣わし、太平洋側の釶屋部・仁土呂志部・宇曽利部の俘囚(朝廷に服属した蝦夷)を官軍に編成したこと。

・この三部の編成は安倍富忠を首とする。頼時との闘いでは、俘囚は為時の軍勢に従った。

・頼時の死

などが報告されていました。しかしいまだ賊徒は服属しておらず、諸国の兵士徴発と兵糧が必要なので、太政官符を賜りたいと申し出ました。この頼義の申請に対して朝廷は、解答を控え、勲功の賞もおこないませんでした。

このように安倍頼時を苦戦の末に破った頼義ですが、大規模な反乱を鎮圧し意気揚々と凱旋ができたわけではなかったのです。

そして前九年合戦は、頼時の死を以って終結とはいきませんでした。

この先は、次回後編で書いていきます。