河内源氏と東国~前九年合戦~後編。

河内源氏と東国~前九年合戦~後編。

前回は「前九年合戦」前編について述べました。今回は続きを見ています。

黄海の合戦

 頼時討伐の勲功を得られないまま、天喜五年(一〇五七)十一月、頼義は頼時の後を継いだ貞任方の河崎柵へ進軍しました。これに対して貞任は黄海(一関市藤沢町黄海)で迎撃をおこない、頼義方を大いに討ち破りました。貞任方は兵の数・地の利で勝り、頼義方は「風雪甚だ励しく、道路艱難たり、官軍食無く、人馬共に疲る」(陸奥話記)という状態だったと記しています。この黄海の合戦で、頼義は嫡男である義家の活躍で九死に一生を得ました。

 義家の活躍ぶりは凄まじく「矢を放てば必ず敵を射殺したので、安倍方は懼れて逃亡した」(陸奥話記)といいます。なんとか窮地を脱した頼義でしたが、従う者は、藤原景通・大宅光任・清原貞広・藤原範季・藤原則明の六騎という有様でした。佐伯経範や藤原景季・和気致輔・紀為清など多くの家人を失い、将軍の頼義討死の噂も立つほどでした。

 大敗により頼義方はこの後、軍事行動を数年間起こすことができない状況に追い込まれました。一方、安倍貞任は奥六郡を完全に掌握し、安倍方に寝返った藤原経清も、陸奥国内の諸郡に対して、赤符(国の徴符)ではなく白符(経清の私的な徴符)を用いて、国へ納めるべき徴納物を堂々と奪い取りました。国守たる頼義は面目を大いに潰されたのです。

清原氏の援軍

 陸奥国内のこうした様相に頼義は、隣国出羽山北の俘囚清原光頼・武則らに協力を求めました。康平五年(一〇六二)八月、頼義からの申し出に応えた清原武則が、一万余りの兵を率いて陸奥国へ入りました。頼義の軍と栗原郡営岡(たむろのおか)で合流しました。この時の陣容は、第一陣が清原武貞(武則の子)、第二陣は橘貞頼(武則の甥)、第三陣に吉彦秀武(武則の甥にして婿)、第四陣が橘頼貞(貞頼の甥)、第五陣は源頼義と清原武則、第六陣に吉美候武忠、第七陣が清原武道という清原軍主体の編成でした。いかに清原氏の力に依存していたかがわかります。

小松柵・衣川の関・厨川柵の合戦

清原氏の力を得た頼義軍は松山道を北上し、貞任の異母弟宗任率いる軍勢と、小松柵で合戦となりました。宗任方を破った頼義方に対して、貞任が大軍をもって襲来しました。両軍は一歩も引かず、激しい戦いを繰り広げました。しかし貞任方は力尽き、敗走しました。追走する頼義軍は衣川の関に貞任を追いつめ、さらに攻め立てました。貞任は鳥海柵へ退き防戦を試みますが、勢いに乗る頼義方に撃破され、北の厨川柵に逃げ込みました。

同年九月十五日、頼義は厨川柵を攻め立てました。溝を埋め、萱を刈り取って河岸に積み、八幡社の神に祈り、神火だと称して投げつけ、城柵を焼き払いました。この戦いで貞任は戦死、一族も誅殺され、藤原経清も斬殺されました。長い、前九年合戦が終わった瞬間でした。

前九年合戦の勲功とその後

翌康平六年(一〇六三)二月十六日、安倍貞任・藤原経清・安倍重任の首級が朝廷に献じられました。二十五日の除目では、頼義に正四位下伊予守、義家は従五位下出羽守、清原武則を従五位下鎮守府将軍への任命が、勲功として与えられました。

この後、清原武則は、藤原経清の妻(頼時の娘)を、嫡子武貞の妻に迎え入れ、安倍氏の旧領奥六郡を継承しました。この時、経清と頼時の娘の間に生まれていた子は助命され、武貞の養子となりました。この子が後に奥州藤原氏の祖となる清衡です。清原氏の複雑な血筋が再び奥羽に戦乱を招くこととなります。

・長元九年(一〇三六)十二月、奥六郡主安倍忠良、陸奥国での政治改革における功績により陸奥権守に就任。
・永承六年(一〇五一)六郡主安倍頼良、陸奥守藤原登任と紛争(前九年合戦がはじまる)。登任の後任の陸奥守に源頼義が就任。
・永承七年(一〇五二)安倍頼良、陸奥守源頼義に降伏。名を頼時と改める。
・天喜元年(一〇五三)陸奥守源頼義、鎮守府将軍を兼官。
・天喜四年(一〇五六)前九年合戦が起こる。八月三日、源頼義に安倍頼時追討の宣旨が下る。
・天喜五年(一〇五七)七月二十六日、安倍頼時、安倍富忠の伏兵により傷を受け落命。十一月、源頼義、黄海の合戦で安倍貞任軍に大敗。十二月、頼義、陸奥守再任。朝廷より安倍氏追討を命じられる。
・康平元年(一〇五八)四月、朝廷、源頼義の求めにより、出羽守兼長を更迭。源斉頼を任命。しかし斉頼も兼長と同様、安倍氏追討に非協力的態度を示す。同年、頼義、鎮守府将軍の任期が満了する。
・康平四年(一〇六一)頼義、出羽山北主清原光頼・武則兄弟に安倍氏追討の合力を要請。四月、源頼義の陸奥守の任期が終わる。しかし現地に留まる。後任は高階経重が就任。
・康平五年(一〇六二)春、高階経重が着任。夏頃、朝廷より太政官符で安倍氏追討への協力を要請された清原武則が源頼義への家政を受諾。八月九日、清原氏が源頼義へ助勢。九月十七日、安倍貞任、厨川柵で戦死(前九年合戦が終結)。
・康平六年(一〇六三)二月二十五日、論功行賞により、源頼義は正四位下伊予守。義家は従五位下出羽守。清原武則は従五位下鎮守府将軍に任命される。安倍氏の旧領を勢力範囲に。
・康平七年(一〇六四)二月、源頼義、安倍宗任・正任・真任・家任・則任らを拉致して上京。三月、頼義の拉致した五人は、頼義の任国伊予国へ配流。同年、源義家は出羽守を追われる。
・治暦三年(一〇六七)源頼義、伊予守満了。頼義・義家父子、無官に。源頼俊、高階経重の後任として陸奥守に。