鎌倉と河内源氏 源義家

鎌倉と河内源氏 源義家

 レキシノワ二号は、「武士の世のはじまり」について特集しました。鎌倉幕府を樹立する鎌倉ゆかりの武将、源頼朝の祖先を例に、発展の段階を辿りました。この発展の段階は、ターニングポイントとなる人物と合戦があります。今回は、源頼義の嫡子「源義家」長暦三年(一〇三九)〜承保二年(一〇七五)をとりあげます。

 源義家は源頼義の嫡男として平直方の娘との間に生まれました。平直方と河内源氏の関係については、以前(源頼信・平忠常の乱・源頼義)取り上げたので、そちらを参照してください。同母弟に義綱・義光がいます。また源義家は京都の源氏ゆかりの石清水八幡宮で元服したので、八幡太郎と呼ばれました。

 義家は父と共に、前九年合戦に従軍し、源氏方が大敗した黄海の戦いで、神業と称される射芸を発揮して、父の窮地を救いました。この時、十九歳だったといいます。前九年合戦後に出羽守に任ぜられますが、出羽国が清原氏の本拠地であることから、越中守への転任を希望しています。

 前九年合戦後は、同族の美濃源氏や大和源氏と武門源氏の地位を争い、陸奥国をめぐって大和源氏の源頼俊と対立しました。この時、清原氏の内紛に介入し、後三年合戦を誘発したとされます。後三年合戦については次回、述べていきます。

 後三年合戦に勝利した義家ですが、朝廷からは私的な戦いとされ、恩賞を与えられませんでした。そればかりか陸奥守在任中に徴税を怠ったことから、陸奥守を罷免されてしまいました。この間、摂関家にとりいった弟の義綱が中央政権で勢力を伸ばし、次第に両者は対立するようになっていきます。

 後三年合戦後、10年もの歳月をかけ、未納の税を納めた義家は、承徳二年(一〇九八)正四位下に昇進し、院昇殿を許されました。苦労の末に白河法皇の後援を得た義家でしたが、子供の義親が九州で盗賊行為をおこなうなど、子弟・一族が流罪や対立と殺害を重ね、桓武平氏の活躍するキッカケを与えてしまいます。義家自身は、こうした状況の不安を抱えつつ、嘉承元年(一一六六)に亡くなりました。

 そして義家死後、河内源氏は凋落の一途をたどることになります。