伊豆北条の三つ鱗ヒストリー!!

伊豆北条の三つ鱗ヒストリー!!

 小冊子レキシノワ四号では、北条時政と北条一族の繁栄を「迫力の三つ鱗ヒストリー」と題して特集しました。ここでは実際に北条氏の故郷「伊豆国田方郡北条」をさらに深堀して「伊豆北条の三つ鱗ヒストリー」をレポートします。

〇守山を拠点とする北条氏

 伊豆国田方郡北条を拠点とした北条氏は守山という小高い山の周辺に館を構えました。現在、「北条氏邸宅跡」として整備保存されています。

 この地に生まれ、この地で生涯を終えた北条時政は、「吾妻鏡」の冒頭で、「爰上総介平直方朝臣五代孫北條四郎時政主者、當國豪傑也」。つまり伊豆国の豪傑だと紹介されています。

 西の狩野川、東に下田街道、守山の頂上から見渡せる四方の眺望という、伊豆国の真ん中に近い要衝の地を押さえた北条氏は、武士団の規模としては小さいかもしれませんが、伊豆国の中では一目置かれる存在だったと考えられます。

 鎌倉時代末期の史料になりますが、倒幕活動を積極的におこなった後醍醐天皇の皇子「護良親王」は、北条氏を「伊豆国在庁官人」(=地方役人)と記しています。

〇北条時政と伊豆国

 北条時政は保延四年(一一三八)に生まれたとされます。これは「武家年代記」(増補続史料大成)治承四年条、および没年齢から逆算してそのようにいわれています。

 そして治承四年(一一八〇)に源頼朝と立ち上がるまでの42年をこの地で過ごしました。頼朝が鎌倉へ拠点を定めると、頼朝の義父にあたる時政も鎌倉で生活します。

 頼朝没後、積極的に政治と関わった時政ですが、元久二年(一二〇五)の「牧氏の変」で失脚し、故郷の伊豆国へ追放されました。出家して明盛となのった六十八歳の時政は、10年後の建保三年(一二一五)、この地で78年の生涯を終えました。伊豆国北条での暮らしは一生で52年に及びます。まさに伊豆国北条は、時政が人生で一番長く眺め続けた場所だったのです。今、守山の願成就院には、時政の御墓が伝えられています。