以仁王の乱~治承三年十一月の政変 前編~

以仁王の乱~治承三年十一月の政変 前編~

2021年6月10日

 レキシノワVOL.03の3P~5Pでは、「以仁王の乱」について述べました。以仁王の乱は打倒平氏を各地の源氏に呼びかけ、頼朝が旗揚げをするきっかけとなり、源平合戦へつながる重要な出来事でした。この以仁王の乱を呼び起こしたのが、乱の前年におきた「治承三年十一月の政変」です。「治承三年十一月の政変」は、平清盛が軍事的圧力をもって関白藤原基房以下、反平氏貴族の解官を行いました。この「治承三年十一月の政変」によって、反対勢力を封じ込めた平氏政権は、朝廷内を親平氏勢力で固めることに成功した反面、排除された人々の反感を社会の基層に残します。そこで今回は「以仁王の挙兵につながった「治承三年十一月の政変」についてもう少し詳しく、前編と後編にわけて見ていきます。

突然の政変

 治承三年十一月十四日、平清盛が突如として摂津国福原(※1)から兵を率いて上洛、八条邸に入りました。清盛は翌日十五日に、関白藤原基房と基房の子師家を罷免、親平氏の藤原基通を関白に就任させます。そして十六日には、前僧正明雲を天台座主に還補し、十七日には、太政大臣藤原師長以下三十九名におよぶ貴族を解官しました。二十日には後白河法皇を洛南の鳥羽殿に幽閉し、後白河院政を完全に停止へ追い込み、清盛は福原へ帰ります。この一連の事件を「治承三年十一月の政変」といいます。

(※1)平清盛は仁安四年(一一六九)出家とともに中央政界から引退し、摂津国福原に居住していた。

政変の衝撃

 清盛による一連の処置は、当時の社会に激震を走らせました。右大臣九条兼実は「仰天伏地」し、清盛の行動を「逆乱」「大乱」と非難しました。兼実の書き残した「玉葉」には「去る治承三年以来、武権が君威を奪い、ほしいままに朝務をおこない、これによって天下の貴賤は、ただ武権を恐れ、君命をうやまわず」と記しています。平氏の抑圧に対して、表だって口には出せない、貴族の拒否反応があったことを知ることができます。

政変のきっかけ

 ではなぜ清盛は、武力行使で反対派を一掃したのでしょうか?少し時間を巻き戻して見ていくことにしましょう。

保元の乱・平治の乱を勝ち抜いた平氏は、院や摂関家の内部に入り込むことにより、勢力を拡大してきました。また院や摂関家も平氏の力を利用し、対抗勢力を封じ込め、政治活動・荘園経営を円滑に進めました。

そして互いを結ぶために婚姻関係を重ねていきます。しかし婚姻関係で繋げた人物の死や、代替わりによる血縁構成の変化が、互いに築いた権益を損なう不安を生みました。この不安がいつしか対立と緊張になっていきます。

後白河院との間を繋げた建春門院の死(※2)や、摂関家嫡流藤原基実に嫁いだ清盛の女、盛子の死(※3)は、代表的な出来事です。天皇家や摂関家との繋がりが弱くなると、これまで封じ込めてきた反平氏勢力が、平氏の築いた既得権益を脅かすようになりました。治承三年の政変で、突然の武力行使に頼ったという事は、裏を返せば清盛も追い込まれていたともとれます。

(※2)建春門院は安元元年(一一七六)没。

(※3)盛子(白河北殿)は治承三年(一一七九)没。

政変の具体的な原因

 では清盛が突然の武力行使をおこなった原因は、具体的にどのようなものだったのでしょうか?一般的には次の三点があげられています。➀摂関家藤原基実の遺領をめぐる争い。②後白河院による平氏の知行国越前の収公。③摂関家支流藤原師家の権中納言昇進です。

 次回の後編で、この三点について詳述してみたいと思います。