長谷駅を降りてすぐの所にあります。
北条義時の孫、江間光時の家臣「四条金吾頼基」の屋敷跡
といわれています。金吾は左衛門尉の唐名。四条金吾は北条一族に使える傍ら、日蓮上人に深く帰依しました。文永八年(1271)、鎌倉幕府によって日蓮上人が処罰される際(龍ノ口の法難)、身命を賭して助けに入りました。

日蓮上人が彼に宛てた御消息には次のように書かれています(四条金吾殿御消息)
「度々の御音信、申しつくしがたく候。さてもさても、去ぬる十二日の難のとき、貴辺たつのくちまでつれさせ給い、しかのみならず、腹を切らんと仰せられしことこそ、不思議とも申すばかりなけれ。
日蓮、過去に妻子・所領・眷属等の故に身命を捨てし所いくそばくかありけむ。あるいは山にすて、海にすて、あるいは河、あるいはいそ等、路のほとりか。しかれども、法華経のゆへ、題目の難にあらざれば、捨てし身も、蒙る難等も成仏のためならず。成仏のためならざれば、捨てし海・河も仏土にもあらざるか。
今度、法華経の行者として流罪・死罪に及ぶ。流罪は伊東、死罪はたつのくち。相州のたつのくちこそ、日蓮が命を捨てたる処なれ。仏土におとるべしや。その故は、すでに法華経の故なるがゆえなり。経に云わく〜(後略)
文永八年九月二十一日 日蓮(花押)
四条金吾殿 」(日蓮文集を参考)
日蓮上人と四条金吾の強い結びつきを感じさせます
長谷界隈は北条家と日蓮ゆかりの史跡が交差しているので、掘り下げると面白いと思います!!