北条氏ゆかりの禅寺~円覚寺~

北条氏ゆかりの禅寺~円覚寺~

2021年8月5日

 鎌倉時代(1190年ぐらいから1333年)に鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、鎌倉時代前期に北鎌倉(山内荘)の所領を得ました。現在、北鎌倉一帯には北条氏ゆかりの禅寺がまとまっています。これはかつてこの地域一帯が北条氏の所領(山内荘)だったからです。そこで今回は北鎌倉の禅寺「円覚寺」を訪ね、北条氏との関係を見ていきます。

▲円覚寺のみどころ 三選

~円覚興聖禅寺の扁額~

 円覚寺の伽藍配置は、建長寺と同じように山門・仏殿・方丈などが一直線に並ぶ中国(宋)の禅宗様式にならって建てられています。この中で特に印象的な建築物が、入口にそびえ立つ山門です。

 この山門には、鎌倉時代中期の伏見上皇の勅筆「円覚興聖禅寺」と刻まれた額が、正面の上部にかかっています。伏見上皇は第92代の天皇で、弘安一〇年(一二八七)~永仁六年(一二九八)まで在位しました。

 当時の日本は、二度の蒙古襲来を退けたとはいえ、再びやってくるかもしれない外敵の脅威と、皇統の分裂(持明院統と大覚寺統)、北条時宗死後の鎌倉幕府内部の動揺(平頼綱と安達泰盛の対立)など、社会情勢は混迷を極めていました。こうした時代に天皇として在位し、多忙な政務を執り行った伏見上皇ですが、一方で日本史上随一の能書人としても知られています。伏見上皇は、書道の伏見院流の祖で、書聖として崇められています。この伏見上皇の勅筆なる扁額は、円覚寺の見どころの一つです。

~佛日庵~

 円覚寺の見どころとして外せないのは、国宝の舎利殿です。しかし舎利殿は特別な日を除いては非公開になっています。そこで円覚寺を創建した直後の弘安七年(一二八四)に亡くなった北条時宗と、子の貞時・孫の高時を祀っている佛日庵を取り上げます。

 北条時宗は建長寺を創建した北条時頼の子で、八代執権をつとめ、二度の蒙古襲来という国難に対処した人物です。円覚寺はこの蒙古襲来で亡くなった敵味方の菩提を弔うため、北条時宗が宋(当時の中国の王朝名)の無学祖元を開山に招き創建しました。

 弘安七年(一二八四)北条時宗が急死すると、子の貞時が幼くして北条得宗家を継ぎました。北条貞時の時代は伏見上皇の稿で述べたように、社会が混迷を極めていました。このため貞時は社会の安定化を企画し、自ら幕政の改革を試みます。しかし嘉元の乱と呼ばれる北条家内部の争いによって挫折し、得宗は得宗家という母体の、形式的な長という象徴的な存在になってしまいました。

 この形骸化した得宗家の長を継いだのが、貞時の子、高時です。北条高時の時代の得宗家は、外戚の安達氏と御内人の長崎氏によって運営され、得宗自らが政治を動かすことは少なくなりました。こうした組織の形骸化と、社会情勢の変化に巻き込まれ、元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府は新田義貞の侵攻によってあえなく滅亡しました。

 佛日庵の廟所には、最後の得宗となった時宗・貞時・高時、三代の名木像が安置され、鎌倉時代後期の歴史に想いを馳せることができます。

~洪鐘~

 巨大な山門の右側の山を登ると、頂上に大きな梵鐘を吊り下げた鐘楼があります。洪鐘とは特に大きな梵鐘のことをいい、この梵鐘の高さは約2.6mもあります。円覚寺の洪鐘は、九代執権北条貞時の寄進により、渡来僧の西澗子曇が銘文を撰びました。鐘には『皇帝万歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安』という、国家安泰の文字と、『円覚寺鐘 正安三年八月大檀那平貞時 住持宋西澗子曇 大工大和権守物部国光在銘』の文字が確認できます。

 歴史的価値の高い円覚寺の洪鐘は、建長寺の梵鐘とともに昭和二八年(一九三三)に国宝に指定されました。建長寺・常楽寺の梵鐘とともに「鎌倉三大名鐘」と呼ばれ、円覚寺の見どころの一つとなっています。

☆円覚寺と北条氏との関係をさらに深く知りたい方に 

~北条時宗と円覚寺の創建~

 円覚寺を創建した北条時宗は、五代執権北条時頼の嫡子として育ちました。北条時宗の生涯は蒙古との戦いに費やされたといっても過言ではありません。当時の世界は、チンギスハーン率いる世界最強のモンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻し、その意志を受け継いだ各地のハーンがそれぞれに王朝を打ち立て、周辺諸国に拡大を続けました。この各地の王朝の中でフビライによって中国に築かれたのが「元」王朝です。時宗が若くして執権となった時に、フビライの通交を求める国書が日本に届きました。

 このフビライの圧力に、時宗は断固とした姿勢で戦う事を決断します。文永一一年(一二七四)博多沖にあらわれた元軍を退けた時宗は、弘安五年(一二八二)の再来襲においても徹底抗戦の末、元軍を壊滅に追いやりました。この二度の蒙古襲来を「元寇」と呼びます。そして二度目の蒙古襲来を乗り越えた時宗は、自邸(山内殿)の近くに、敵味方の菩提を弔うため、大陸より無学祖元を招き、円覚寺を開創しました。しかし時宗は円覚寺開創の同年に亡くなってしまいます。まさに蒙古との戦いに生涯をささげた壮絶な人生でした。

~無学祖元と円覚寺~

 無学祖元は南宋宝慶二年(一二二六)に生まれました。北条時宗より二十五歳年長にあたります。十四歳の時、南宋の径山で夢準師範に師事し、十七歳の時に公案「狗子(犬)に仏性ありや」を受け、五年後に悟ったといいます。

 その後諸寺の住持となりましたが、温州能仁寺にいた時、元の兵がやってきて刀を無学祖元の首にあて殺そうとしました。その際、無学祖元は「乾坤孤  を卓つるに地なし喜得す人空、法も亦空なるを珍重す大元三尺の剣電光影裏春風を斬る」と偈を述べて、元の兵に説法をしたという話が伝わっています。

 弘安元年(一二七八)、北条時宗が帰依していた蘭渓道隆が亡くなりました。その為、北条時宗は同年十二月に名僧を招聘するため建長寺の僧を使いとして渡宋させました(この時の書状が今も寺宝として伝わっています)。時宗の請いに応えた無学祖元は、弘安二年(一二七九)八月に鎌倉へやってきました。そしてすぐに時宗から建長寺第五世住持に任ぜられ建長寺に入寺しました(この時の関東御教書も残っています)。

 時宗と無学祖元はお互いに信頼しあい、無学祖元は時宗を「奇なる哉、此力量あり、此れ亦仏法中再来の人なり」と評し「此れ天下の人傑なり」と述べています。そして円覚寺の建立とともに同寺の開山となり寺務を担いました。しかし時宗が亡くなると円覚寺住持を辞し、建長寺の住持となった三年後の弘安九年(一二八六)九月三日、建長寺方丈で亡くなりました。

 開基の北条時宗・開山の無学祖元を失った円覚寺ですが、二人の没後も得宗家の篤い庇護をうけ繁栄は続きます。弘安十年(一二八七)と正応三年(一二九〇)には火災によって、伽藍の大部分を焼失しましたが、北条貞時の支援を受けて、すぐに復興を遂げます。

 延慶元年(一三〇八)には、その北条貞時が朝廷に申請をし、建長寺とともに定額寺となりました。この時、朝廷から賜った太政官符(重要文化財)が現存しています。また現在、山門に掲げられている伏見上皇宸筆「円覚興聖禅寺」の勅額もこの時に賜ったものと伝えられています(現物は宝物として所蔵)。

 北条貞時は円覚寺の規律を気にかけ、僧衆の姿勢を正すため永仁二年(一二九四)に禁制を出し、乾元二年(一三〇三)に制符(共に現存。重要文化財)を出しました。貞時の子の高時も嘉暦二年(一三二七)に制符を出しており、時宗以後の北条得宗家と円覚寺の深い関係をうかがい知れます。

 円覚寺は鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏の後援をうけ、尊氏の崇敬した夢窓疎石が入寺するなど鎌倉五山の第二位としての格式と繁栄を保ち続けました。