北条氏ゆかりの禅寺~禅興寺跡~

北条氏ゆかりの禅寺~禅興寺跡~

2021年8月2日

 禅興寺??はじめて聞く寺名だと思います。

ちなみに北鎌倉の地図で、この御寺の名前を探しても、見つけることはできません!!

そう禅興寺はすでに廃寺となっていて、今は存在しない御寺なのです。

 ではなぜ今は存在しない禅興寺を取り上げたのかというと、北条氏の歴史と深い関わりを持ち、今もその痕跡を辿れる御寺だからです。

 禅興寺は北条時宗により、父時頼がかつて邸宅を構え、最明寺という寺を建てた明月谷の入り口付近に創建されました。室町時代に入ると、禅興寺の中に明月院という塔頭が建てられ、今に続いています。一方、禅興寺は明治時代に存続ができなくなり、残念ながら廃寺となってしまいました。しかし禅興寺の遺産は明月院に受け継がれ、かつての名残を今も感じることができます。

 明月院であれば地図ですぐに見つけられますよね。そこで今回は明月院周辺から北条氏ゆかりの禅寺、禅興寺跡を辿ってみます。

☆禅興寺なごりの三選

一、明月川 

 北鎌倉駅から明月院へ向かうと、細い川が流れています。

鎌倉時代の禅興寺は一つの谷戸を寺域としていました。この川の流れをさかのぼっていく道中すべてが、かつての禅興寺の寺域でした。

二、明月谷 

 明月川を遡っていくと、段々と山あいの地形になっていきます。この細長い谷戸が、禅興寺のあった谷戸「明月谷」です。

 北鎌倉の禅寺は一つの大きな谷戸に寺域が設けられています。建長寺や円覚寺などの景観をイメージするとわかりやすいですね。

三、明月院

 禅興寺の塔頭の一つで、廃寺となった禅興寺の歴史を今に伝えています。入り口の門柱には「本朝十刹第一位禅興仰聖禅寺跡」と刻まれているのが確認できます。入ってすぐ左には北条時頼の供養塔を、方丈では北条時頼の坐像を拝む事ができます。

☆禅興寺跡と見どころをさらに深掘り!

 禅興寺を理解するには、五代執権北条時頼を知る必要があります。禅興寺のあった明月谷はかつて北条時頼が邸宅を構え、政治を執り行いました。北条時頼は父、時氏と兄、経時が早世したため、若くして北条得宗家を継ぎました。このため時頼を軽視する見方も強く、時頼は母の実家である安達氏や、叔父の北条重時の力を借りながら、政権の安定を目指します。

 時頼が得宗家を継いだ時期の鎌倉幕府は、摂家将軍を支える名越北条氏や三浦氏などが強大な勢力を持っており、時頼は不安定な政権運営を強いられます。まずはこれら反対派との戦いを勝ち抜くしか、自身と得宗家を守る道はありませんでした。そして不穏な鎌倉中(今の鎌倉市中心部)から、比較的安全な自領の山内荘(北鎌倉)に移り政治を行いました。

 山内荘に移った時頼は自邸の近くに最明寺という寺を建て、ここで所願の成就を祈りました。このため出家後の時頼は最明寺入道と呼ばれています。この寺と自邸は大きな建物だったようで、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には時の将軍が訪れた様子が書き残されています。こうした記録からこの地の当時の繁栄を感じることができます。

 北条時頼は三十四歳の若さでなくなりますが、臨終を迎えた場所も山内荘の最明寺でした。時頼の死後、時頼の菩提を弔っていた最明寺ですが、いつしか荒廃し、かつての輝きを失っていきます。

 この衰えた時頼の菩提寺を、禅興寺として甦らせたのが、子の時宗です。時宗は建長寺を開いた蘭渓道隆を開山として迎え禅興寺を創建しました。

 鎌倉時代における禅興寺の規模はわかりませんが、鎌倉時代末期の「北条貞時十三回忌」では、法要のために円覚寺にあつまった各寺の僧の人数が記されています。禅興寺は、円覚寺350人・建長寺388人・寿福寺280人・浄智寺224人に次ぐ、92人と五番目に多い僧を参加させています。

 また「五山記考異」(天文七・八年成立。内容は室町時代中期の永享年間かと推定されている)の中には、仏殿・法堂・僧堂・経蔵・山門・稜厳塔・昭堂があったと記録されています。この記録から禅興寺の規模の大きさをうかがい知ることができます。

 禅興寺は鎌倉五山に次ぐ、関東十刹の第一位に列せられていました。成安寺文書という文書には、室町幕府最後の将軍足利義昭が、恵澄という僧を禅興寺住持に任命したことが記されています。この史料からは、禅興寺の住持が足利将軍家によって選ばれるという、高い格式を有していたことがわかります。

 江戸時代に編纂された「新編鎌倉志」には、仏殿に「本尊は釈迦なり、首ばかり、慧心の作なり」とあり、土地堂には「蜀の大帝の像(一躯)、韋駄天の像(運慶作)、地蔵像(運慶作)、平時宗・貞時・上杉重房の像が各一躯」、祖師堂には「大覚禅師の像、平時頼の像あり(泥塑なり、蘭渓作という)」と記されています。さらにこの「新編鎌倉志」には、明月院の左側に仏殿のような建物が描かれ、禅興寺と付されています。これらの記録から江戸時代の禅興寺は、仏殿・土地堂・祖師堂が残り、いつくかの寺宝を伝えていた事がわかります。

 明治時代に入り、廃仏毀釈などの政策により、運営の厳しくなった禅興寺は廃寺となりました。しかしこれらの記録から、明月谷にかつて北条氏ゆかりの禅寺が確かに存在していたことがわかります。