北条氏ゆかりの禅寺~建長寺~

北条氏ゆかりの禅寺~建長寺~

2021年7月29日

 鎌倉時代(1190年ぐらいから1333年)に鎌倉幕府の実権を握った北条氏は、鎌倉時代前期に北鎌倉(山内荘)の所領を得ました。現在、北鎌倉一帯には北条氏ゆかりの禅寺がまとまっています。これはかつてこの地域一帯が北条氏の所領(山内荘)だったからです。そこで今回は北鎌倉の禅寺「建長寺」を訪ね、北条氏との関係を見ていきます。

▲建長寺のみどころ 三選

~伽藍配置~

 建長寺は日本で最初の禅専門道場として、鎌倉時代中期の建長五年(一二五三)に創建されました。開基(創建した人)は北条時頼。開山(寺をはじめて開いた人)は蘭渓道隆。開山の蘭渓道隆は中国(宋)の生まれで、当時中国で隆盛を極めていた禅の教えを伝えるために日本へ渡ってきました。蘭渓道隆は北条時頼の招請により鎌倉へ入ると建長寺の建立を任され、山門・仏殿・法堂・方丈が一直線に並び、庫裡・僧堂・衆寮などを回廊で結んだ、左右対称の中国風の伽藍配置にしました。これはこの後、次々と創建される禅寺の基本様式になりました。今に伝わる鎌倉時代末期の元弘元年(一三三一)に制作された「建長寺伽藍指図」でも、現在とそれほど変わらない景観が見て取れます。700年を越えても変わらない景観は、建長寺の歴史を伝える見どころの一つといえます。

~本尊地蔵菩薩坐像(室町時代作)~

 建長寺が建てられた場所は、かつて地獄谷と呼ばれ、刑場だったといわれています。地獄谷と呼ばれる場所はかつて日本中の、村と村の境目にあたる境界線付近に点在していました。そしてそこは埋葬の地や刑罰の場所として使われていました。中心地から離れた場所に穢れや怨念を封じ込める意味があったと考えられます。建長寺の地獄谷は鎌倉中と山内荘の境目(巨福坂あたりを境界とする)に位置しました。このため建長寺の本尊は、禅宗寺院で一般的な釈迦如来像ではなく、地蔵菩薩像が安置されています。

 建長寺創建以前の歴史と関わりのある、大きく特徴的な本尊地蔵菩薩坐像は、建長寺の見どころの一つです。

 ※地蔵菩薩は「六道の一切衆生の苦を除き、福利を与えることを願いとする菩薩。また、特に地獄の衆生を教化し、代受苦の菩薩とされるが、俗信では、小児の成長を守り、もし夭折した時はその死後を救い取ると信じられ尊崇された。密教では菩薩形にあらわされるが、普通には頭をまるめた僧形で、宝珠を持ち、平安中期以降は宝珠と錫杖を持つ姿が一般化し、多く石に刻まれて路傍に建てられた。その救いのはたらきや霊験、形、置かれた地名などによって、親子地蔵、腹帯地蔵、雨降地蔵、お初地蔵、とげぬき地蔵、勝軍地蔵、延命地蔵などの名がある」(日本国語大辞典)と説明されています。

~梵鐘~

 巨大な山門の右手鐘楼には、北条時頼寄進の梵鐘があります。高さは約2.1mで創建当時の数少ない貴重な文化財の一つです。蘭渓道隆が銘文し、浮き彫りの文字から、後世に永く伝えようという意志を感じさせます。銘文の最後には次のように刻まれています。
『建長七年卯乙二月二十一日 本寺大檀那相模守平朝臣時頼 謹勧千人同成大器 建長禅寺住持宋沙門道隆 謹題都勧進監寺僧琳長 大工大和権守物部重光』。建長七年に造られ、相模守平朝臣時頼(=北条時頼)、建長禅寺住持宋沙門道隆(=蘭渓道隆)の名が確認できます。

建長寺の梵鐘は、円覚寺の梵鐘とともに昭和二八年(一九三三)に国宝に指定されました。歴史的価値が高く、確かな由来を持つ梵鐘は、円覚寺・常楽寺の梵鐘とともに「鎌倉三大名鐘」と呼ばれています。

▲建長寺と北条氏との関係をさらに深く知りたい方に 

~北条時頼と建長寺の創建~

 鎌倉時代中期、五代執権北条時頼は仏教を篤く敬い、仏法の救いで国家の鎮護を図りました。時頼が北条得宗家を継いだ当時の鎌倉幕府は、摂家将軍(四代将軍頼経・五代将軍頼嗣)に連なる勢力が、北条得宗家に対抗する力を持ち、国内の情勢は緊張に包まれていました。北条氏の中でも、特に名越流北条氏が家格・実力ともに得宗家を凌ぐ力を持っており、当主の名越光時が前将軍頼経を擁して反旗を翻そうとしているという噂が流れました。このため時頼は名越光時の所領を没収して伊豆国へ追放します。さらに光時以外に、陰謀に関わる者の多くを処罰しました。この一連の騒動を「宮騒動」といいます。

 宮騒動の翌年、鎌倉幕府草創以来の有力御家人三浦泰村が、同じく幕府の有力御家人で、時頼の母の実家にあたる安達氏の挑発に耐え切れず、反旗を翻しました。

 北条時頼は安達氏と共に三浦一族とその与党を激戦の上、打ち破り、北条得宗家の力を高めることに成功します。しかしその代償に多くの御家人達の血が流れました。立て続けに続く内乱の収束を図るため、建長四年(一二五二)時頼は将軍頼嗣を京都へ追放し、後嵯峨天皇の皇子で当時十一歳の宗尊親王を新たな将軍として迎え入れ、政治の安定を図りました。以後、鎌倉将軍は皇族に連なる親王将軍が務め、北条得宗家に包接された形で、鎌倉幕府は運営されていきました。

 こうした既存秩序を改変する政治姿勢の裏側には、自戒の想いがともなったことはいうまでもありません。時頼は世の中の安定を祈り、鎌倉に次々と高僧を招きました。宝治二年(一二四八)に後の曹洞宗の開祖道元を、弘長二年(一二六二)には当時隆盛を極めていた真言律宗の叡尊を招き、人々に仏教の教えに触れる機会を設けています。蘭渓道隆の招請と建長寺の創建も、この時頼の仏教に対する崇敬が深く関係していました。

 そして北条時頼の鎮護国家の願いと蘭渓道隆の精神は、次代に引き継がれ、今なお北鎌倉の地で世の安寧を願い続けています。

~ところで蘭渓道隆ってどんな人?~

 蘭渓道隆(1213年〜1278年)は中国の西蜀地方に生まれ、十三歳で成都の大慈寺において出家しました。その後、無明慧性に師事し、入宋していた日本僧から、日本では禅が広まっていない事を聞き、渡航の念を抱いたといわれています。そして寛元四年(一二四六)三十三歳の時に来日、はじめは博多の円覚寺に入り、その後、鎌倉の寿福寺や常楽寺などに入寺しました。

 建長五年(一二五三)、北条時頼が建長寺を創建すると、同寺の開山として迎え入れられます。建長寺は日本で初めて密教など他の教義を教えない純粋な禅宗寺院として建立され、蘭渓道隆に教学とその運営が任されました。蘭渓道隆は建長寺の住持を十三年にわたって勤めあげ、弘長二年(一二六二)、京都の建仁寺へ移りました。京都では時の治天の君、後嵯峨上皇から宮中へと召され、偈頌を進上しています。そして三年後の文永二年(一二六五)に鎌倉へ戻り、再び建長寺の住持に就きました。

 この頃、北条時頼はすでに没し、子の北条時宗(十四歳)が得宗家を継いでいました。蘭渓道隆は時宗の参禅の師としても重きをなし、文永九年(一二七二)には北条時宗開基の禅興寺(明治初年に廃寺。現在、塔頭の明月院が残る)の開山になります。しかし同年、流言により甲斐へ配流されました。その後、一旦は許されて鎌倉へ戻りますが再び嫌疑をかけられ、今度は奥州松島へ流されました。蒙古とのつながりを疑われたといいます。この後、再び赦免され、文永の蒙古合戦後の弘安元年(一二七八)四月に三度目の建長寺住持となります。しかし七月に病となり、同月二十四日、遺誡五条を衆僧に示して入寂しました(六十六歳)。

 蘭渓道隆の亡くなった後、北条時宗は朝廷に、我が国最初の禅師号となる「大覚禅師」の諡号の下賜を奏請しました。蘭渓道隆が建長寺の僧衆のために記した法語規則(国宝)や罰榜からは、厳しい禅の教えをもって門弟と接し、熱心に指導をした姿勢をうかがい知ることができます。こうした蘭渓道隆の姿勢が「大覚禅師」の諡号につながったといえます。

~伽藍の歴史~

 このように日本の禅宗史に多大な足跡をのこした蘭渓道隆がもっとも長く住持を勤め、多くの弟子を指導した場所が北鎌倉に現在も堂々と建つ建長寺です。建長寺は総門、三門、仏殿、法堂などを主とする七つの建物が一直線上に並ぶ中国の禅宗様式をならい伽藍配置されました。この一直線に並ぶ中国禅宗様式の伽藍配置が、その後、日本各地に建てられた禅寺の基本様式となりました。京都の東福寺や大徳寺なども建長寺の伽藍配置にならっています。

 現在でも建長寺の伽藍は、一直線上に並んでおり創建当時の景観をよく残しています。建長寺を訪れると、まず「建長興国禅寺」の額がかかる巨大な三門に圧倒されます。この額の字は後宇多上皇の勅筆です。そして本尊の地蔵菩薩像が安置される仏殿に至るまでの参道には、蘭渓道隆自らの手植えと伝わる樹齢約750年といわれる柏槙(ビャクシン)が左右に並んでいます。また境内奥の回春院の前には、蘭渓道隆が賜った大覚禅師号の名にちなむ大覚池が水を湛えています。

~文化財~

 見所の多い建長寺ですが、創建以来大切に護り続けられてきた文化財も目を見張るものがあります。建長寺の有する宝物は、普段は一般公開されていません。しかし毎年十一月三日前後の三日間にわたって行われる「風入」と呼ばれる虫払いの間に寺宝が公開され、一同に観ることができます。

 開山の蘭渓道隆に関わりのある寺宝をとりあげると、国宝の頂相「絹本淡彩蘭渓道隆像」は、上段に記された蘭渓道隆の自賛により、文永八年(一二七一)に描かれた事が分かります。また蘭渓道隆はやせ形で眼光の鋭い人物だったようです。蘭渓道隆像の黒目の周りは金泥で縁取られており、これは他の頂相・肖像画には見られない手法だという事が指摘されています。

 他に、「蘭渓道隆経行図」(重文)や、蘭渓道隆の孫弟子にあたる太虚元寿(約翁徳倹の弟子)が一三二九年に霊石如芝より賛を書いてもらった「蘭渓道隆像」(重文、絹本著色)もあります。

 肖像彫刻では建長寺西来庵開山堂の「蘭渓道隆坐像」(木像漆塗玉眼、十三世紀、重文)があり、この像は示寂の前後に制作されたと推定されています。瞳は玉眼ではなく、水晶を上から貼り付け、黒目の周囲に放射線上に金泥線が引かれており、これも他に例がないといわれています。

 蘭渓道隆は張即之の書(墨跡の書法の基礎をなした)をよく学び、その張即之の書風を日本へ最初に伝えた人物としても知られています。このため蘭渓の書は常に張即之の書と比較されます。蘭渓道隆の書風をうかがえるのが、国宝に指定されている大覚禅師墨蹟(法語規則)です。この墨跡にある「法語・規則」は、「見鞭影而後行」の文からはじまる「法語」と、「長老首座」にはじまる「規則」の対幅になっています。「法語」は衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したもので、「規則」は行規の厳格を要求し、違反者には罰を科すものです。これら蘭渓道隆の語録は、『大覚禅師語録』に収められています。

 このように建長寺と蘭渓道隆は日本禅宗史上の画期を成し、禅宗の興隆に深い影響を与えました。