荏柄天神社の関取場を深堀!!

荏柄天神社の関取場を深堀!!

2021年7月26日

 小冊子レキシノワ3号の「散歩に行こう!史跡を見よう!」(6P/7P)では、菅原道真ゆかりの荏柄天神社とその周辺の地図を取り上げました。今回はそこに記した関取場跡について深堀します。

後北条氏による荏柄天神社再興

 室町幕府と鎌倉府が争った永享の乱で、鎌倉公方足利持氏が敗れると、関東は争乱の時代へ突入しました。足利成氏が鎌倉から古河へ逃れると、求心力を失った鎌倉は荒廃の一途をたどります。鶴岡八幡宮は荒れ果て、荏柄天神社も朽ちていきました。戦国時代に入ると伊豆国から相模国へ勢力を伸ばした小田原北条氏が、鎌倉にも影響を及ぼしました。鎌倉の荒廃を憂いた小田原北条氏は、鶴岡八幡宮の造営を行います。そして荏柄天神社の再建を支援するため、金沢街道沿いに関所を設け、関銭の徴収を認めました。これが関取場跡の由来です。

「荏柄天神社造営関定書案」

 天文十三年(一五四四)に関銭徴収の方法を定めた古文書が伝わっています。そこには次のように書かれています。

「鎌倉荏柄御造営関仁置法

  商人方

  • 麻・紙・布類荷物  十文

一、あい物馬      五文

一、せおひ荷      三文

  道者方

  • 荷付馬・牽馬・乗馬 十文
  • 手振人別      十文
  • 従他国上江参馬・飛脚等見分、可取関、
  • 往来僧俗、不可取関、
  • 里通之者、不可取関、

以上

右為御造営令寄進畢、若於役所有横合之儀者、

註交名可令注進者也、仍如件、

天文十三年 甲□□年十二月廿七日」

このように商人と通行人に分け、それぞれ規定の銭を徴収しました。この史料から金沢街道は、物資を運ぶ人通りの多い、幹線道路だったことをうかがい知ることができます。