北条氏ゆかりの禅寺~東慶寺~

北条氏ゆかりの禅寺~東慶寺~

2021年8月9日

 東慶寺(山号、松岡山)は、明治時代に入るまで尼寺としての歴史を刻んできました。はじまりは八代執権北条時宗の正室、堀内殿(覚山尼)が、夫の死の翌年にあたる弘安八年(一二八五)に開いたと伝えられています。

☆東慶寺の見どころ三選。

一、自然

 東慶寺は花の寺と称されるほど、境内には四季折々の花が咲き誇ります。

季節を感じながら、仏縁に感謝して境内をまわりましょう!!

二、やわらかな表情の仏像

 続いての見どころは、鎌倉時代に制作されたと伝わる木造彩色水月観音坐像や、木造聖観音立像などの仏像です。水月観音坐像は観音様の縁日である毎月18日に御開帳されます。

三、鐘楼の天井に描かれた雲竜図

 境内に入ってすぐ左の鐘は、観応元年(一三五〇)に鋳造された歴史ある梵鐘です。この鐘の天井いっぱいには、雲竜図が描かれており、境内にある松岡宝蔵に彩色の複製が展示されています。

●東慶寺の見どころをさらに深掘り!

三人の尼様

 東慶寺が尼寺としての格式を高めたのは、三人の尼様の存在が大きな影響を及ぼしています。そこで東慶寺の尼寺に関する歴史を追ってみます。

 まずは東慶寺を開いた覚山尼について簡単に説明します。覚山尼は円覚寺を建立した北条時宗の正室で、出家する前は堀内殿と呼ばれました。堀内殿の父は、鎌倉幕府の有力御家人である安達義景で、堀内殿と北条時宗の結婚によって、両家は固い絆で結ばれました。文永八年(一二七一)に嫡子貞時を儲け、夫婦で禅に深く帰依しました。夫の時宗は二度目の蒙古襲来を退けた後の弘安七年(一二八四)、病床に臥し、無学祖元を導師として出家します。そしてまもなく時宗は三十四歳の若さで亡くなりました。翌年、堀内殿は北鎌倉に東慶寺を建立し、尼寺としての歴史がはじまります。

 続いて東慶寺の格式を高めた用堂尼をとりあげます。用堂尼は鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇の皇女にあたります。なぜ天皇の皇女が東慶寺に入寺したかというと、後醍醐天皇の皇子護良親王の菩提を弔うためです。護良親王は鎌倉幕府討伐に活躍し、建武政権では征夷大将軍に任命されました。しかし足利尊氏を敵視したため、父の後醍醐天皇より将軍を解任され、当時足利氏の治めていた鎌倉に預けられます。そして戦乱の最中に足利尊氏の弟、直義によって殺害されてしまいました。この無念の死を遂げた護良親王を弔うために、妹の用堂尼が東慶寺に入ったのです。皇女を迎えた東慶寺はその後「御所寺」「松岡御所」と称され、鎌倉尼五山の第二位に列せられるほどの格式を得ました。

 最後に駆け込み寺の由来となった天秀尼を見ていきます。江戸時代は女性から夫婦関係を解消する離縁の申し込みができませんでした。しかし夫婦の間には様々なトラブルや行き違いがあり、時には妻側からどうしても別れたいという事情も存在します。そんな時、「東慶寺」や群馬県の「満徳寺」に駆け込むと、離婚の調停を行うことができました。こうした「駆け込み寺」と呼ばれる特別な存在に東慶寺がなったのは、豊臣秀頼の娘(天秀尼)の入寺にあります。天秀尼は大阪冬の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川秀忠の娘で豊臣秀頼に嫁いでいた千姫の養女となり、東慶寺に入りました。この時、家康に女人養護の「旧例の寺法断絶なきよう」と願い、東慶寺の尼寺としての特権が認められます。天秀尼や千姫を通して徳川家と関係を築いた東慶寺の格式は江戸時代も続き、救いを求める多くの女性を支えました。

尼寺らしい寺宝

 東慶寺の歴史に深い関わりを持った三人の尼様の後は、東慶寺の寺宝について見てきましょう。まずは木造聖観音立像です。この像は元々、鎌倉尼五山一位太平寺の本尊でした。

  木造聖観音立像 は戦国時代に房総半島の安房から里見氏が鎌倉に乱入した際、安房国に持ち去られました。しかし後に東慶寺の要山尼がこの本尊をとりかえし、東慶寺に伝わりました。この像を安置していた太平寺の仏殿が現在の円覚寺舎利殿です。木造聖観音立像は、全体に宋風彫刻の影響を強く受けています。衣文には厚手の彩色のほか、細かく土紋が施されています。土紋はねった土を花、葉、輪法などの雌形にいれて文様をつくり、それを衣の適当な場所に漆で貼る装飾法で浮彫に似た効果をだすのが特徴です。

 次いで木造彩色水月観音坐像を見ていきます。岩にもたれてくつろいだ姿勢が特徴的な水月観音坐像は、水面に映った月を見ている姿だと言われています。同じような描写は水墨画に多く、水月観音、楊柳観音、白衣観音などの別名があります。こうしたくつろぐ姿の観音像は、中国の宋から元時代に大流行しましたが、日本では鎌倉周辺にしか見られないといわれています。煌びやかな印象を与える銅製の冠、胸飾などは後世に装飾されました。