北条氏ゆかりの禅寺~浄智寺~

北条氏ゆかりの禅寺~浄智寺~

2021年8月12日

 浄智寺(山号、金宝山)は、鎌倉五山第四位という格式の高い御寺です。はじまりは五代執権北条時頼の三男北条宗政(弘安四年。1281年没)の菩提を弔うため同年、子の師時らによって創建されました。

☆浄智寺の見どころ三選

一、鐘楼門(しょうろうもん)

 浄智寺の境内に入るとすぐ目の前に現れるのが、中国風の鐘楼門です。

二、 木造三世仏坐像

 続いての見どころが、本尊に安置されている木造三世仏坐像です。

三、 鎌倉江ノ島七福神の一つ「 布袋尊の石像 」

 最後に境内奥の洞窟に祀られている、彌勒菩薩の化身の布袋尊の石像です。鎌倉江ノ島七福神の一つとして知られています。

☆浄智寺の見どころをさらに深掘り!!

 浄智寺の開基は宗政の子・北条師時とされています。しかし創建時に師時は当時8歳と幼少だったことから、実際には宗政の妻と宗政の兄・北条時宗によって建立されたのではないかと考えられています。

連ねています
浄智寺は開山が三人いる?
 浄智寺の開山には日本人僧の南州宏海が招かれました。南洲宏海は、宋出身の高僧である兀庵普寧に参じ、その後に入宋(中国に渡る)しています。諸方を遊学した後、帰国。日本では大休正念に師事し鎌倉の浄智寺に住みました。このため浄智寺は南洲以前に大休正念が興していたがいつしか退廃し、南洲宏海が入山した後に、再び栄えたといわれています。このことから大休正念も古開山とされています。南洲宏海は尊敬する兀庵普寧にも敬意を表し、二人を開山ということにして、自身は準開山になりました。こうした理由から、浄智寺の開山には三名が名を連ねています。南洲宏海は六十三歳で示寂し、死後、浄智寺内に塔院が建てられ、蔵雲庵と称しました。
 南州宏海以後、浄智寺には高峰顕日や夢窓疎石らの名僧が住持し、最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も11寺院を数えたといいます。現存する鐘楼門(しょうろうもん)や本堂からは、当時の中国様式である宋風(そうふう)を感じることが出来ます。
 元亨三年(一三二三)北条貞時十三年回忌が円覚寺でおこなわれた際、浄智寺からは224人もの寺僧が参加したと記されており、その規模の大きさをうかがい知れます。
 しかし鎌倉幕府滅亡後の延文元年(一三五六)の火災により、創建以来の伽藍の大部分を失ってしまいます。近年の発掘調査では谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡が確認され、往時は円覚寺と同じくらいの規模だったと考えられています。

特徴的な三世仏
 本尊に安置されている木造三世仏坐像(阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来)は、それぞれ過去・現世・未来の三世に渡り、人々の願いを聞いてくれるという意味を表します。
 阿弥陀如来像の手は、悟りを開いた時の心の安定を表わす定印(じょういん)を結び、釈迦如来像は右手が下、弥勒如来像は左手が下と、少しずつ違っています。両脇に垂れる長い衣や、床の黒い敷瓦などからも「宋風(そうふう)」の特徴を見出す事ができます。
 また木造三世仏坐像が安置されている本堂「曇華殿(どんげでん)」は、三千年に一度だけ咲く伝説の優曇華(うどんげ)の花に由来しています。優曇華(うどんげ)は、優曇波羅華の略で、仏にあいがたいことや、一般にきわめてまれなことをたとえに用います。


 他にも寺宝の「木造地蔵坐像」(国指定重要文化財)や「木造韋駄天立像」(市指定重要文化財)が伝わります。これらは鎌倉国宝館におさめられ、展示中には近くで見ることができます。また境内は国の史跡に指定され、界隈は昭和の初めから文化人に好まれ、映画監督の小津安二郎や日本画家の小倉遊亀などが居宅を構えました。さらに境内の墓所には作家の澁澤龍彦などの文人達が眠っています。