荏柄天神社を深堀!!

荏柄天神社を深堀!!

2021年7月15日

 小冊子レキシノワ3号の「散歩に行こう!史跡を見よう!」(6P/7P)では、菅原道真ゆかりの荏柄天神社を取り上げました。そこで今回は紙面で紹介しきれなかった荏柄天神社に迫っていきます。

荏柄天神社と菅原道真

荏柄天神社は、平安時代の長治元年(一一〇四)に創建という鎌倉でも古い神社です。主祭神は「学問の神様」として知られる菅原道真で、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮とともに日本三天神の一つに数えられています。菅原道真は平安時代の貴族で宇多天皇に重用され、「寛平の治」といわれる治世を実現しました。遣唐使の廃止は特に有名ですが、私営田の抑制・滝口武者の設置・国司請負など後の政治の理想とされた「延喜・天暦の治」の土台をつくりあげました。しかし反感をもつ貴族層によって失脚し、福岡の太宰府へ左遷されます。そして二年後の延喜三年(九〇三)無念のうちに亡くなりました。道真の死後、都では皇族・貴族の突然の死や天変地異・疫病が流行します。これらは道真の祟りだと恐れられ、怨霊を慰撫するため天神として、北野神社(現、北野天満宮)に祀られました。

「相模国鎌倉荏柄山天満宮略縁起」には、鎌倉でも天神画像が降ってきて、人々が恐れたことを記しています。そして天神画像が降臨した場所に社殿を造営し、菅原道真を祀りました。これが荏柄天神社創建の由来です。

本殿は鶴岡八幡宮若宮の旧社殿を移築

荏柄天神社の本殿(国の重要文化財に指定)は、鎌倉最古の神社建築で鶴岡八幡宮若宮の旧社殿を移築したものです。寛永元年(一六二四)徳川秀忠による鶴岡八幡宮造営がおこなわれました。これに先立ち、元和八年(一六二二)頃に移されたといいます。「鎌倉荏柄山天神社由緒書」の同七年の項には、「台徳院様御造営被 成下候儀、同八年鶴岡御造営ニ付、鶴岡若宮八幡宮古宮ヲ荏柄山御移、御金木材被下置、末社等迄御造営被 成下候由伝候、」と記されています。

鎌倉時代に造られた木造天神坐像「怒り天神」

社宝として納められている木造天神坐像は、鎌倉時代の弘長元年(一二六一)神主平政泰によって造立されました。この像は「怒り天神」の名で知られ、憤怒の表情が印象的です。木造天神立像と共に国の重要文化財に指定されています。

天神名号「天満大自在天神」

 かつて荏柄天神社には菅原道真の神号「天満大自在天神」と書かれた天神名号が三幅あったと「新編相模国風土記稿」には記されています。1つ目は室町幕府四代将軍足利義持筆、2つ目は親鸞筆、3つ目は豊臣秀頼筆です。義持と親鸞の天神名号は今も荏柄天神社の所蔵ですが、豊臣秀頼筆は伝わっていません。しかし逗子の神武寺に伝わる天神名号が、明治の神仏分離の際に、荏柄天神社から移されたのではないかといわれています。