毛利季光・大江広元・島津忠久の墓所

毛利季光・大江広元・島津忠久の墓所

北条義時法華堂跡の奥にあります。元々は古墳時代後期に造られた横穴墓であったものを転用したものだそうです。江戸時代に島津氏や毛利氏が造営しました。

向かって左が毛利季光(もうりすえみつ)の墓です。

毛利季光(生年不明~1247年没)は、大江広元の四男にあたります。毛利氏の祖で、承久の乱(1221)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど活躍しました。しかし北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)で妻の実家である三浦氏に味方。戦に敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂で自害したといいます。

季光の墓所は、大江広元の墓が造営されたのと同じ文政六年(1823)に、毛利斉煕(なりひろ)によって鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷の地)に造営されました。その後、大正10年(1921)現在地に移設されました。

向かって真ん中が大江広元の墓です。

大江広元(生年不明~1225年)は鎌倉将軍家の政所初代別当を務めた人物。源頼朝の側近として鎌倉将軍家の創設に貢献しました。

公家出身の広元は、主に鎌倉将軍家と京都の公家との間の交渉で活躍。頼朝死後も、北条政子や北条義時らとともに鎌倉将軍家を支えました。この墓も毛利季光の墓と同じ文政六年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕(なりひろ)が造営しました。

向かって右が島津忠久の墓です。

島津忠久(生年不明~1227年)は、鎌倉将軍家の御家人で後に薩摩藩主となる島津氏の祖となる人物です。忠久の祖母が将軍源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用されました。平氏追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘(しまづのしょう)の地頭職に任ぜられました。

島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説も伝わっており、安永八年(1779)に、時の薩摩藩主島津重豪が頼朝の墓に近いこの地に祖先の忠久の墓を造営しました。