北条氏ゆかりの禅寺~常楽寺~

北条氏ゆかりの禅寺~常楽寺~

 北鎌倉に禅寺があつまる理由は、北鎌倉から横浜市南部を含む山内庄が、北条家嫡流(得宗家)の所領だったからだと以前、述べました。そして北鎌倉の建長寺・円覚寺・禅興寺跡・東慶寺・浄智寺をめぐり簡単な解説と見どころを書きました。これら北鎌倉に林立している禅寺から少し離れた大船地域にも、北条家ゆかりの禅寺があります。三代執権北条泰時の菩提寺、常楽寺です。そこで今回は番外編として、この常楽寺について、解説していきます。

 常楽寺(山号、粟船山)は、嘉禎三年(一二三七)に北条泰時を開基、退耕行勇を開山として建てられました。つまり北鎌倉に禅寺が建てられる以前に建立された北条氏ゆかりの御寺です。このため「常楽は建長の根本なり」といわれてきました。

 北条泰時は御成敗式目を制定したことで有名な人物です。退耕行勇は、源頼朝・北条政子の帰依を受け、政子が出家した際には戒師を務めました。また源実朝の正室・坊門信子や北条義時の室、伊賀の方の落飾にも携わるなど、当時、将軍家や得宗家にもっとも信頼される名僧でした。

☆常楽寺を訪れたら見てみよう三選。

~イチョウの古木~

 常楽寺に入ると正面左にイチョウの木々が見えます。

この木々の中心に、かつて常楽寺に入寺した蘭渓道隆が植えたと伝わる、イチョウの古木があります。

~文殊堂~

 続いての見どころが、趣きある茅葺きの文殊堂です。堂内には特別な日にご開帳される文殊菩薩坐像が安置されています。素朴な雰囲気から、古に常楽寺が粟船御堂と呼ばれていた歴史を想起させられます。

~北条泰時公の御墓に手を合わせよう~

 仏殿の後ろに三代執権で常楽寺を開いた、北条泰時公の御墓があります。北条泰時は亡くなると当寺に葬られました。吾妻鏡の寛元元年(一二四三)六月一五日条には、粟船御堂で一周忌がおこなわれ、孫の経時・時頼兄弟以下、錚々たる北条一族の参列が記録されています。

☆常楽寺をさらに深掘り!!

~北条泰時について~

 北条泰時は二代執権義時の子として生まれました。義時は泰時の他に、朝時・政村・実泰などたくさんの男子に恵まれています。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝はこの子供達の中でも、特に泰時を気にかけ大切に扱いました。

 泰時の名を世に知らしめたのは、父義時が後鳥羽上皇から追討宣旨を受け勃発した「承久の乱」です。東海道の大将軍として鎌倉を発った泰時は、見事、後鳥羽上皇方を破り、鎌倉幕府を守り切りました。そしてそのまま京都に残り、戦後の不安定な西国社会や朝廷の静謐に力を注ぎました。

 父の死後は鎌倉へ戻り、御成敗式目の制定や巨福呂坂の開削、和賀江島の築港など、発展していく都市を整備しています。

 こうして北条泰時は、社会の安定に精力的な政治をおこないましたが、仁治三年(一二四二)に亡くなり、当地に埋葬されました。

~阿弥陀如来像~

 仏殿本尊に安置されている、阿弥陀如来像の台座には、仁治三年(一二四二)六月一二日の銘があります。このため同年五月九日に出家し、六月一五日に亡くなる、北条泰時の極楽往生を願い造られたと考えられています。

 鎌倉時代に造られた阿弥陀如来像は、黒光りしつつも、非常に良い状態で伝来しており、当時の祈りを肌で感じることができます。

 また阿弥陀如来像が安置されている仏殿内の天井には、江戸時代に狩野雪信が描いた雲龍図も鮮やかに残っています。

~常楽寺の梵鐘~

 常楽寺の梵鐘は鎌倉に現存する最古の梵鐘です。現在、鎌倉国宝館に寄託されており、常設展示で間近に観ることができます。

 この鐘は国宝に指定されている建長寺や円覚寺の梵鐘の先魁となりました(鎌倉三大名鐘)。こうした文化財からも、常楽寺が建長寺の根本といわれる理由をうかがい知ることができます。