石橋山の合戦で亡くなった佐奈田与一義忠ゆかりの「證菩提寺」

石橋山の合戦で亡くなった佐奈田与一義忠ゆかりの「證菩提寺」

 鎌倉市の北に隣接する横浜市栄区は、かつて江戸時代は鎌倉郡に属し、中世は山内荘という荘園で北鎌倉と一体になっていました。さらに古代は鎌倉郡尺度郷の内にあったので、古くから鎌倉の中だったといえます。そこで何回かに分けてこの「知られざる横浜の中の鎌倉」を取り上げていきます。

 栄区の古刹「證菩提寺」は石橋山の合戦で頼朝の身代わりとなり落命した、佐奈田与一を祀る寺として頼朝によって建てられました。創建は文治五年(一一八九)といわれ、建久八年(一一九七)に完成したとされています。

☆源氏の家紋「ササリンドウ」

證菩提寺を訪れると、寺紋に注意してみましょう!!金色の「ササリンドウ」はもとより、屋根瓦も「ササリンドウ」紋が用いられています。

☆与一の父、岡崎義実の「五輪塔」

 本堂裏山には与一の父、岡崎義実の「五輪塔」が祀られています。

岡崎義実は三浦半島は大豪族三浦義明の弟で、相模国の岡崎(現:平塚市)あたりに所領を構えていたので「岡崎」の名で呼ばれました。

頼朝の父、義朝に仕え、平治の乱で義朝が亡くなると、鎌倉の亀谷にあった義朝館を寺に改め菩提を弔っています。頼朝には挙兵時から参じ、絶大な信頼を得ました。石橋山の合戦では、頼朝の身代わりとなり嫡男与一義忠が亡くなります。この時、与一義忠を討った長尾定景は、後に捕らえられ岡崎義実の預かりとなりました。

 囚人となった長尾定景が毎日法華経を読経する姿を見た義実は、頼朝に対して「読経を聞くうちに怨念が晴れました。彼を斬れば冥土にいる与一義忠に難が蒙りましょう」と述べ、息子の仇でもある定景の赦免を願います。慈悲深い義実をあらわす逸話だといえます。

 建久四年(一一九三)に老衰のため出家し、正治二年(一二〇〇)に八十九歳で亡くなりました。法名の「證菩提」は「證菩提寺」の寺号になりました。

●往時の證菩提寺

 往時の寺の規模は、佐奈田与一を祀る阿弥陀堂を中心に、大日堂・中房・慈台房・実応房・智台房の七坊があったと伝わります。大日堂は室町時代に編まれた「鎌倉年中行事」から岡崎堂とも呼ばれていたことがわかります。かつての證菩提寺は、東を坂中(山手学院入口)および小槻峰(上郷市民の森)、南を矢沢木戸口(フローラ桂台南西部)、西は辺渕橋(稲荷橋)、北は筑後大道(元大橋)という広大な規模だったといわれています。

●北条泰時の娘「小菅ヶ谷殿」

 やがて時代は北条氏の世となり、證菩提寺を含む山内荘は北条得宗家のものとなりました。そして北条泰時の娘「小菅ヶ谷殿」が矢沢木戸口に近い高台(現:亀井町の山王台堂畑)に「新阿弥陀堂」を建立し、北条政子の追善供養を行いました。

●寺宝

 證菩提寺には普段公開はされていませんが、創建時に祀られたといわれている木造阿弥陀如来坐像(県指定重要文化財)と、小菅ヶ谷殿が建立した新阿弥陀堂に祀ったとされる木造阿弥陀如来及両脇侍像(国指定重要文化財)、證菩提寺の歴史を伝える「證菩提寺文書」(市指定文化財)が伝わっています。