これまで河内源氏嫡流の人物を取り上げてきましたが、今回は嫡流以外の人物を取り上げます。鎌倉市と逗子市の境にある六角ノ井は、源義朝の異母弟、為朝にちなむ井戸です。
源為朝は、為義の八男として産まれました。異母兄に頼朝の父、義朝がおり、同母弟に為朝と共に保元の乱で亡くなった為仲がいます。
為朝は身長が七尺(2m10cm)もあったといわれ、弓を得意としていました。幼い頃から気性が荒く、13歳の時に父の為義から勘当を受け、九州に追放されたといわれています。
九州に渡った為朝ですが、自ら鎮西惣追捕使と称して各地で暴れ回り、久寿元年(一一五四)には朝廷より出頭の宣旨が下されました。為朝はこの命令に従わない姿勢を見せましたが、翌年、為朝の乱暴が基となって、父の為義に危害が及び解官されると、上洛の命令に応じ、九州の強者を率いて上洛しました。
上洛中の保元元年(一一五六)に保元の乱が起きると、父為義に従い兄弟と共に崇徳上皇方へ参上します。そして異母兄の義朝と壮絶な戦いを繰り広げました。
しかしこの戦いで崇徳上皇方は敗れ、父為義や兄弟達が斬首されました。戦場がら逃れた為朝は逃亡を続けましたが、近江国坂田郡に隠れている所を見つかり捕らえられます。
朝廷は為朝の武勇を惜しみ命だけは助け、伊豆大島へ流刑に処します。やがて伊豆大島に渡った為朝は、島の代官の婿となり、静かな生活をおくると思われました。しかし年貢を滞納するようになり、ついには伊豆七島を占領するという武力行使を行います。このため朝廷は為朝討伐の院宣を下しました。
嘉応二年(一一七〇)四月、伊豆国の工藤茂光は伊東氏や宇佐美氏等を率いて、為朝討伐に向かいます。多勢の軍勢を前に、為朝は抵抗することをあきらめ、最後に敵船に向かい自慢の強弓を披露した後、自害しました。
この為朝の生涯最後に射た矢が、海を越え突き刺さった場所が、今の六角ノ井だといわれています。そして矢の突き刺さった所からは、水が湧き出て、井戸として使われるようになりました。
まさに為朝の強弓を、誰しもが認めたからこその伝説といえます。