レキシノワVOL.02の3P~5Pでは、「武士の世のはじまり」について述べました。武士は、臣籍降下→中央軍事貴族→武家の棟梁と発展していきます。この流れによって源頼朝が鎌倉に、本格的な武家政権を樹立した段階へと繋がるのです。
さて源頼朝は河内源氏の流れを組みますが、河内源氏はもともと平安京で朝廷や摂関家に近侍する一族でした。河内源氏が東国と深いかかわりをもったのは、源頼信が上総・下総・安房という現在の千葉県で起きた平忠常の乱を治めたことをきっかけとします。そして頼信の嫡子頼義が東北地方で起こった安倍氏の反乱(前九年合戦)を平定し、征夷に携わる武門の家という地位を築きました。そして源義家が後三年合戦で武勇を示し、その名を天下に轟かせました。平忠常の乱・前九年合戦・後三年合戦については、以前述べましたので、今回は、源為義と源義朝が関わった「保元の乱」について述べていきます。
保元の乱が起る前の12世紀初めから半ばは、政治構造の変化が起こっていました。この時期は、院政の成立と荘園公領制が確立しはじめる段階で、上皇の側に仕える院の近臣が力を持つようになりました。院政をはじめた白河法皇の後を受けた鳥羽上皇は、待賢門院との間に崇徳天皇を儲けました。しかし崇徳は、鳥羽に嫁ぐ前に白河法皇と密通した待賢門院の子という噂が流れ、鳥羽は次第に崇徳を疎んじるようになります。そして受領層の院の近臣藤原長実の娘、美福門院を寵愛するようになっていきました。やがて美福門院との間に子供を授かると(体仁親王)、崇徳天皇を無理やり退位させ、体仁を即位させました(近衛天皇)。ここに王家が分裂する原因が生じます。
次に摂関家に目を転じてみると、当時摂関家を切り盛りしていたのが、大殿と呼ばれた藤原忠実でした。忠実には忠通と頼長という20歳ほど離れた子供がいました。そして忠実は嫡子に恵まれない忠通の養子に頼長を据えたのです。しかし康治二年(一一四三)、忠通に実子の基実が誕生すると、にわかに雲行きが怪しくなっていきました。忠通は頼長へ渡す約束だった摂関の地位の譲渡を拒絶し、忠実の命令に従わないようになっていきます。忠実・頼長と忠通の対立が深まると、先述の王家の分裂と結びつき、崇徳・待賢門院に忠実・頼長が、美福門院に忠通が結びつくという構図が出来上がりました。
こうして王家・摂関家の対立構造が鮮明になると、それぞれに連なる勢力の対立も先鋭化しました。この中で最も対立の激しかった一族の一つに、河内源氏があげられます。河内源氏の当時の棟梁は源為義です。為義は摂関家に仕え、忠実・頼長と深い関係を築きました。この為義に反目したのが、為義によって廃嫡にされた義朝です。義朝は若くして東国に下ると、関東で勢力を拡大し、中央の舞台に返り咲きました。そして鳥羽院へ接近することに成功します。義朝は美福門院ともつながり、義朝の勢力は父為義を凌ぐようになっていきました。
近衛天皇が幼くして亡くなると、美福門院と関白忠通・実務官僚の藤原信西は、崇徳の子重仁の即位を阻止するため、鳥羽法皇に雅仁(後の後白河)の子、守仁を次の天皇にするよう働きかけました。雅仁は待賢門院の子で、守仁も同じラインに連なりますが、守仁は美福門院の猶子となっており、美福門院に連なる勢力の支持があったと考えられます。こうした働きかけに鳥羽法皇は、守仁は幼いので、守仁が成長するまで、父親の雅仁を中継ぎの天皇として即位させました(後白河天皇)。これに崇徳陣営は不満を抱えますが、鳥羽法皇の存在が辛うじて、不満の爆発を防いでいました。
しかし保元元年に鳥羽法皇が崩御すると、一気に政局が動き始めました。後白河陣営は頼長を挑発し続け、頼長を挙兵へと追い詰めていきます。崇徳上皇を擁して兵を挙げた頼長ですが、後白河方は周到に用意を進め、義朝・清盛等の武士を動員し、夜襲をしかけました。戦いは後白河方の圧勝に終わり、崇徳は讃岐へ流罪、頼長は戦いの最中に受けた傷が基で亡くなりました。 こうして王家・摂関家の対立は、保元の乱の終結によって一旦は解消され、新たな政権による政治が進められていきました。