武衛~唐名(とうみょう)~

武衛~唐名(とうみょう)~

2020年9月26日

 武衛とは兵衛府(ひょうえふ)の唐名で、吾妻鏡第一巻では頼朝を示す時に使われている。

 兵衛府は、令制に定められた内裏外側の諸門を警備する役職で、時には行幸(天皇の外出)の警護なども任務とした。兵衛府は左右の二府で構成された左右近衛・左右衛門・左右兵衛の六衛府の一つで、督・佐・大尉少尉・大志少志の四等官のほかに医師が一名、番長四名、兵衛四〇〇名などの職員を置く機関であった。

 頼朝は平治元年(一一五九)右兵衛督の次官、従五位下右兵衛権佐に任命された。従五位下は位階を表す。従五位下以上が貴族とされた(従三位以上が公卿)ので、頼朝は若干十三歳で貴族社会の仲間入りをした。しかし平治の乱で父義朝が破れたので、任官してからわずか二週間ほどで解官された。

 ちなみに右兵衛権佐の「権」とは、権官(ごんかん)という正官を補助するために設けられた役職で、正官と官位相当は変わらない。平安時代になると官職の数より、官人の数が増えたので権官が多く任命された。

 この兵衛府の唐名(からな・とうみょう)が武衛である。唐名とは、日本の官職を中国の官称にあてはめたもの。例えば太政大臣を相国(しょうこく)、大納言を亜相(あしょう)、中納言を黄門(こうもん)という。今でいうと社長をCEOというように、外国の呼び名をあてはめると国際的でカッコよく見えるのと同じような感覚である。このような理由から唐名はしきりに用いられ、平清盛は平相国と称され、徳川光圀は水戸黄門といわれた。

 また現在も時々耳にする仙洞は太政天皇を、東宮は皇太子を、禁中は内裏を意味する唐名で、意外に唐名は馴染みのある言葉だといえる。