治承三年の政変

治承三年の政変

2020年9月14日

治承三年(一一七九)の政変は、歴史を大きく動かす契機となった事件である。平氏と院の近臣の決定的な対立、以仁王の乱、延暦寺など寺院勢力との対立激化など、この政変により平氏政権に対する不満が高まり社会が動揺した。

 もともと治承三年の政変以前から、平清盛と後白河院は不穏な関係にあった。治承三年の政変の三年前(安元二年)に両者を繋いでいた後白河院の妃である清盛の義妹滋子(建春門院)が亡くなると、なんとか保たれていた強調関係が崩れ始めた。滋子死去の翌年には、鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、両者の関係は決定的に破綻した。

 治承二年(一一七八)に清盛を外祖父とする安徳が産まれると、高倉院・安徳天皇という平氏による傀儡体制の樹立が可能となった。これは後白河院の影響力の後退につながる可能性を含んでいた。また平氏の中枢にありながら、幾度となく後白河院と平氏の間に入っていた清盛の嫡男平重盛が亡くなった。さらに摂関家に嫁いでいた清盛の娘盛子が亡くなると、遺領の問題をきっかけに清盛と後白河院は激しく対立する。

 治承三年十一月十四日、後白河院の姿勢に激怒した清盛は福原から兵を率いて上洛した。清盛は後白河院と結ぶ関白藤原基房を解官させ配流に処した。後任には娘婿の近衛基通を置き、三十九名におよぶ院の近臣を解官させた(『玉葉』『山槐記』同日条)。

 そして十一月二十日には後白河院を洛南の鳥羽殿に幽閉した。ここに後白河による院政は完全に停止した。この一連の事件を「治承三年の政変」という。

 治承三年の政変は大幅な知行国の改編をともなった。政変前に平氏一門がつとめた知行国はおよそ十七カ国であったが、政変後は三十二カ国となり、全国のおよそ半分に及んだ。このため各国で平氏につながる国守・目代が新しく誕生し、これまで院や院の近臣とつながり在地に特権を確立していた在庁官人と対立するようになった。

 関東では相模国の受領が院の近臣平業房から藤原範能に、上総国では藤原為保から伊藤忠清となった。両国でこれまで勢力を築いていた在庁官人の三浦氏や上総氏の特権が脅かされる事態となった。こうした社会的背景に、後に頼朝のもとへ多くの武士達が馳せ参じた要因の一つがある。

  また延暦寺や興福寺などの大寺社でも、院や院の近臣につながる勢力と平氏につながる勢力の対立が激化した。こうした中で高倉天皇は譲位後はじめての神社参詣に、先例を破って平氏が篤く崇拝する厳島神社へ参詣した。当時、正統な王権は仏法によって支えられ、仏法も王権により支えられているという考えが信じられていた(王法仏法相依)。先例を無視するという事は、宗教界の秩序を変えるものとされ、猛烈な反発を浴びたのである。宗教界を含む清盛による新秩序の構想は、翌年の福原遷都の強行へとつながる。

 このように治承三年の政変をキッカケに社会全体の動揺が広がり、翌年には以仁王の乱へと発展した。さらに以仁王による平氏追討の令旨は、各地で反平氏の挙兵をうながし、時代は治承・寿永の内乱へと進んでいく。