鎌倉時代を理解するには平安時代を知る!!〜文化〜

鎌倉時代を理解するには平安時代を知る!!〜文化〜

 日本初の本格的な武家政権の時代といわれる鎌倉時代だが、すべては平安時代の延長にあるといってよい。特に平安時代末期を理解することが鎌倉時代を知る早道である。ただし一口に時代といっても政治・社会・経済・文化など時代を構成する要素は多い。そこで何回かにわけて時代について述べていく。今回は「文化」にかかわる内容をまとめてみる。

 院政期文化の院政とは退位した太政天皇が上皇となり、幼い天皇に代わって執り行った政治をいう。天皇の政治は朝廷でおこなわれ規律や儀式に束縛されたが、上皇は自邸で比較的自由な政務を執った。また院のもとには全国から荘園が寄進され、各地から運上物が届いた。このため院と地方の交流が盛んとなり、都の文化が地方へ伝播する一因となった。院は平安京の東の地、岡崎にたくさんの御願寺を建立し、白河法皇による法勝寺には前代未聞の高さを誇る八角九重の塔が建てられた。仏法にも篤く帰依する歴代の院達による旺盛な文化的活動は、洛南の鳥羽離宮跡や蓮華王院三十三間堂の千体阿弥陀像からうかがいしれ、当時の壮大な文化が感じられる。

 仏教関係でこの時期の特色の一つが浄土信仰の流行であろう。平安時代末期は仏教でいう釈迦の入滅後、正法・像法に次ぐ時期「末法」にあたり、仏の教えがすたれ教法だけが残る最後の時期「=末法の世」といわれた。末法の世は永承七年(一〇五二)に入ったとされ、貴賤を問わず極楽浄土に往生を遂げたいという願いが、浄土信仰の興隆をもたらせた。

 京都府南部の木津市に残る浄瑠璃寺の九体阿弥陀仏や福島県の白水阿弥陀堂、岩手県平泉の中尊寺金色堂など、院政期の文化は地方にも広がったことがうかがいしれ、院政期以降の地方興隆の一端を垣間見せる。これは地方に相当な財力と強大な基盤を確立した大豪族があらわれたことを意味する。奥州を統治した奥州藤原氏は豊富な砂金と良馬の産出で巨万の富を築いた。都の文化を積極的にとりいれ、奥州藤原氏の拠点平泉は黄金文化が花開いた。西国では日宋貿易を牛耳った平氏が太宰府・厳島・福原の瀬戸内海航路沿いに国宝の平家納経、大輪田の泊跡などを遺し往時の繁栄を今に伝えている。遅れて源頼朝が拠点を構えた鎌倉では、武家政権の所在地にふさわしい建築物の建立が盛んとなった。

 このような地方興隆は、造寺造仏はもちろん絵画や金銀細工などの工芸技術の伝播もともなった。よく知られている運慶・快慶らの慶派仏師の活動は幅広く、代表作の東大寺南大門の金剛力士像は、この時期のエネルギーと彫刻技術の高さを今に伝えている。彼らは有力者の依頼に応じて、地方の造仏も請け負った。

 慶派仏師の例は一例に過ぎず、各分野で強大な権力者のもとさまざまな造作がおこなわれた。院政期は列島規模で文化が興隆した時代であったといえる。