人物紹介~源頼朝~

人物紹介~源頼朝~

2020年9月24日

 源頼朝は久安三年(一一四七)に生まれたとされる。これは没年から遡ったもので、当時の史料に誕生の記録が載っているわけではない。

 父は鎌倉でも活躍した河内源氏の源義朝。母は熱田大宮司の藤原季範の娘。異母兄に義平・朝長という二人の兄がいた。義平は三浦義明、朝長は波多野遠義の娘が母とされている。ともに相模国ゆかりの豪族で、若き日の義朝が鎌倉を拠点に武勇を奮った様子が伝わる。

 頼朝は彼らの後に産まれたが、母の出自から嫡男として扱われ、十二歳で皇后宮権少進に任ぜられ、上西門院の蔵人を勤めた。そして平治の乱では、従五位下に叙されて貴族の仲間入りを果たすと、右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)という官職についた。まさに将来を嘱望される存在だった。

 しかしこの平治の乱で、父の義朝が平清盛率いる平氏に敗れ、人生が百八十度変わっていく。頼朝は東国へ落ち延びる途中で父とはぐれると、平氏方に捕らえられ、清盛の許へと引き立てられた。この時、清盛の継母池禅尼(いけのぜんに)の嘆願により、頼朝は奇跡的に斬首をまぬがれた。清盛にとっては将来に大きな禍根を残す判断となったがこの時は知る由もない。頼朝は死一等を免ぜられたが、伊豆国へ流罪となった。この頼朝流罪の処置はかつて仕えた上西門院の働きかけがあったともいわれる。

 ちなみに同母弟希義は土佐国へ、異母弟ら(今若、乙若、牛若)は寺院に入れられ、それぞれ命だけは助かっている。

 伊豆国で罪人となった頼朝を監視したのは伊東氏だったが、伊東祐親が上洛中に、頼朝は祐親の娘との間に男子を儲けてしまう。帰国してこのことを知った祐親は激怒した。男子は殺害され頼朝は身を追われた。

 伊東を追われた頼朝は同国北条へ逃れ、在庁官人北条時政に庇護を求めた。そしてここで時政の娘政子と結ばれこととなる。

 流人生活をおくる頼朝だったが、比較的自由に暮らしていたようで、頼朝の乳母比企尼や寒河尼等の支援と、月に三度も京都から情報を伝えたとされる三善康信の存在など、外部との接触も規制されていたわけでは無かった。こうして治承四年(一一八〇)の挙兵(頼朝三十四歳)までの二十年間、のんびりと伊豆国で暮らし続けた。

 平穏な日々をおくる頼朝に転機が訪れる。打倒平氏の挙兵をうながす以仁王の令旨が届いたのである。この場面は、以前読んだ通りだが、ここから頼朝の絶え間ない戦いの日々がはじまっていく。ここから先の頼朝の生涯は本サイトの「吾妻鏡と鎌倉」で読み解いていきたい。