以仁王の乱~「治承三年十一月の政変」後の平清盛による政権構想~

以仁王の乱~「治承三年十一月の政変」後の平清盛による政権構想~

 前回は「治承三年十一月の政変」が以仁王の乱→源頼朝の挙兵へとつながる重要な事件としてとりあげました。この政変で平清盛は武威を示し、既存の権益を守ることに成功します。しかし、このために自身の行いが正当なものであることを示す必要が生まれました。後白河法皇を頂点とするこれまでの朝廷から、高倉上皇―安徳天皇を中心とする体制の構築です。そこで今回は「治承三年十一月の政変」後の平清盛による政権構想を見ていくことにします。

後院庁の設置

 後白河院政を停止した平清盛は、すぐさま「後院庁」という天皇退位後の上皇の居所と付属する機関を設置しました。これは高倉を「治天の君」とする体制構築の足掛かりといえます。つまり後白河院政の権益を、高倉に置き換えることで、これまで平氏に連なる勢力が保持していた後白河院政の中の既得権益や現体制の維持をはかろうとしたのです。このため後院庁別当には国政を熟知した参議左大臣藤原長方や蔵人頭左中弁藤原経房が補任されました。

新たな摂関家体制

 「治承三年十一月の政変」で新たに関白・氏の長者となった基通はわずか十九歳でした。このため摂関家の家政に、朝務に関わる重職の者をつけ、補佐する必要がありました。家司の執事に権右中弁藤原光雅、年預に平重衡、上厩別当に平忠度、下厩別当に藤原親雅、勧学院別当に権右中弁藤原兼光などが登用されています。

平清盛による朝廷

 治承三年十二月に再び入京した平清盛は、十二月九日に孫の春宮言仁の「垂髪の儀」をおこない、翌年正月に「着袴・魚味の儀」、二月に「高倉天皇の譲位」、四月に「安徳天皇の即位」を進め、自身を天皇家の外祖父とする朝廷を構築していきます。これら国政の重要事項は、高倉天皇に奏上させる前に平清盛を中心とする「内儀」で決定しました。

驕れる平氏

 治承三年十一月から翌四月の安徳天皇即位までの急激な体制変化が、改変による不利益や将来への不安を募らせ、反平氏勢力を肥大化させていきます。特に皇族の子弟や摂関家の一族が入寺する延暦寺・園城寺・興福寺などの大寺社勢力の動揺は激しいものでした。これらの平安京をとりまく三寺によって後白河法皇と高倉上皇を奪い取る計画までたてられたといいます。後に平清盛による福原遷都は、安全とはいえない平安京をとりまく不穏な情勢が、本線にあったといえます。