以仁王の乱~「令旨の日付考」~

以仁王の乱~「令旨の日付考」~

2021年7月8日

 前回は「以仁王の令旨」が実際にあったものかを研究史を追って見ていきました。その中で「令旨の出された時期」に関しては、別で見ていくと述べました。そこで今回は「令旨の日付」ついて詳述していきます。

令旨の日付

まず問題の令旨の日付ですが、「吾妻鏡」「平家物語」などの4月説と「愚管抄」の記述から5月15日以降の説に大きく分けられています。

平泉隆房氏は「玉葉」(貴族の日記)の中で、当時、以仁王の偽の令旨が流布していたという記述から、「愚管抄」は、偽の令旨を引用したのではないかとされ、「愚管抄」の「三条宮(以仁王)、寺(園城寺)に七・八おはしましける間、諸国七道へ宮の宣とて、武士を催さるる文どもを、書ちらかされたりけるを、もてつぎたりけるに、」の記述を無かったものとしてとらえ、四月にだされたものとしました。

これに対して河内祥輔氏は、当時の貴族の日記に、五月十五日以前に「以仁王の令旨」に関する記載がないことから、「愚管抄」の記述を「延慶本平家物語」の治承五年五月十九日源行家願文の内容から次のように解釈すべきと示しています。

「延慶本平家物語」の治承五年五月十九日の源行家願文

この願文は、「玉葉」「吾妻鏡」からすでに先学によって実在したものとされています。以下、長文ですが、この願文の以仁王の令旨に関する部分を引用しておきます。

正上六位源朝臣行家、去ぬる治承の比、最勝親王の勅を蒙るに云はく、「大相国入道(中略)或は今上聖主(高倉)の位を奪ひて、謀臣の孫(安徳)に譲り、或は本親天皇(後白河・高倉)を楼に込めて、已に理政を留む。亦、一院第二皇子(以仁)は当国の器たりと称し、同四年五月十五日の夜、俄に取り籠め奉るべきの由風聞す。園城寺に退き入り給ふの処、(中略)恣に漏宣を構へ、或は天台山に放ちて与力を制し、或は護国司に仰せて軍兵を集む。已に王法を絶ち、仏法を亡ぼさんと擬する処なり。早く天武皇帝の旧儀を尋ねて、王位を推し取るの輩を討ち、上宮太子の古跡を訪ひて、仏法破滅の類を亡し、元の如く国政を一院に任せ奉らん。諸寺の仏法繁昌せしめ、諸社の神事懈怠無く、正法を以て国を治め、万民を誇らしめ、一天を鎮めん」と許りなり。

この中で「最勝親王の勅」と書かれ、更に「以仁王が園城寺へ逃れたのが分かった五月十五日の出来事」が書かれています。このことから河内氏は「最勝親王の勅」は五月十六日以降に園城寺で書かれたものでなければならないとしました。そして源頼政の子仲綱が以仁王の命を受けることのできる五月二十二日~五月二十五日の間に出されたものだと述べています。つまり「愚管抄」の記述は間違っていなかったと結論づけました。

しかし先に平泉氏の指摘した以仁王の令旨があったから、王による謀反が発覚したという点は「吾妻鏡」「平家物語」に書かれている4月という日付も捨て難いように考えられます。

まとめ

以上、以仁王の令旨の出された時期、四月説と五月説を簡単に取り上げました。いずれにせよ頼朝の挙兵は八月十七日なので、以仁王の謀反発覚から四か月~五か月後のことになります。そのためこの間の、社会情勢を読み取ることが、源頼朝の挙兵した真意につながると考えられます。そして頼朝の真意がどこにあったのかに関わらず、以仁王の令旨が社会に与えた影響は、計り知れないものだったという事実も動かしがたいといえます。