鎌倉時代を知るには平安時代を理解する!!~荘園~

鎌倉時代を知るには平安時代を理解する!!~荘園~

2020年9月6日

 日本初の本格的な武家政権の時代といわれる鎌倉時代だが、すべては平安時代の延長にあるといってよい。特に平安時代末期を理解することが鎌倉時代を知る早道である。ただし一口に時代といっても政治・社会・経済・文化など時代を構成する要素は多い。そこで何回かにわけて時代について述べていく。今回は「社会」にかかわる内容をまとめてみる。

 平安時代末期の社会は荘園公領制という制度によって成り立っていた。荘園公領制とは、荘園と公領から成り立つ社会である。荘園とは様々な特権が設定された所領を指し、公領は国家の基本的な収取体系によって運営された場所をいう。荘園も税の徴収は義務付けられていたが、貴族・大寺社などに給与する費用や維持費の寄進が進み、直接充てがわれるようになり、国を介さず収取されるようになっていった。こうして貴族・大寺社による特権が増えると荘園の領有権は強まっていった。平安時代末期の院政期は荘園の立荘が盛んにおこなわれ、各地の荘園から平安京に産物が運上され王家および貴族・大寺社の経済が活性化し、中央と地方の結びつきが強くなっていった。

ではなぜ平安時代末期に荘園の立荘が盛んとなったのか?

 もともと我が国は飛鳥・奈良時代に中国の政治制度(律・令)を導入して、公地公民制をとっていた。公地公民は人に土地を与え(口分田)、人に夫役を課した。つまり土地と人を把握して税を収取したのである(班田収授法)。しかしこれでは新たな土地の開拓が進まず、人口の増加によって口分田が不足する・戸籍の把握の限界という様々な問題を抱えるようになり、発展する時代の変化に対応できなくなっていった。そこで朝廷は新規開墾を奨励するため、三代まで私有を認める「三世一身の法」を施行した。しかし開発地の私有は認められても税は徴収されることや、いずれ結局は開発地を返さないといけないので、積極的に新規開墾が進むことは無かった。このため朝廷は永続的に私有を認める「墾田永年私財法」を発布するに至った。ここに荘園のうまれる下地ができたといえる。

 誰もが新規開墾できるようになったとはいえ、実際に新規開墾ができたのは、大寺社や貴族および在地の有力者達であった。なぜなら新規開墾をおこなう土地というのは、これまで田畑がつくられなかった悪条件の土地だったので、大勢の人の力によって環境の整備が必要であった。人を動員できるのは大寺社や貴族および在地の有力者たちであり、新規開墾はこれら特定の人々によって進み、荘園が形成されていった。

 ただし土地の私有が認められたといっても、税は納めなければならなかった。荘園領主の収入は夫役などの租税以外の部分である。しかし特別な理由により朝廷から貴族および大寺社に収取物の一部が下賜されると、現地に対する荘園領主の介入は強まっていった。例えば東大寺は大仏供料として毎年一定の費用を国から受け取っていた。しかしやがて指定の地域から直接東大寺に納入されるようになり、現地と東大寺が直接やりとりするようになっていった。こうして国司が税を徴収する場所ではない「不輸」(これが特権の一つ)の地が生まれ、やがて国司の介入さえも拒否できる「不入」の権利を持つ独自の所領が築かれていった。

 こうした特権を多く持っていれば、荘園領主の支配・領有権の強い荘園となる。しかしつながりを持つ中央貴族の没落や大寺社の衰退・もともと脆弱な荘園は、荘園整理や国司の介入を招き、荘園の停廃の危機にさらされる。このため権力基盤が強固な院や摂関家・大寺社に所領を寄進して、得分と職(権利)を守る動きが盛んに見られるようになった。これが寄進地系荘園とされる。ただし最近の研究は平安時代末期に院や貴族・大寺社に荘園の寄進が進んだのは、上からの強制による荘園の集積があったとされている。

 平安時代末期に院が政治を握ると、朝廷は国衙領・荘園から租税を収取し、荘園からは院が租税以来の雑税を収取することによって国務が成り立つようになる。さらに院は一時的に莫大な財を確保できる「成功」や「一国平均役」を賦課し、荘園の立荘を推し進めた。

 こうして集積した院の荘園は政治的影響を受けにくい女院(女性の皇族)に与えられた。この女院領荘園群は不分割なものとして次代に継承され、やがて王権の絶大な権力基盤となった。

 「吾妻鏡」の冒頭にでてくる八条院はこの女院の一つである。八条院は鳥羽法皇の娘で、法皇の寵愛をうけ膨大な荘園を譲り受けていた。この荘園群は八条院領と呼ばれ中世王家領として伝領した。そしてやがて鎌倉時代後期に後醍醐天皇を輩出する大覚寺統の中心的な経済基盤となっていった。