石橋山の合戦の経過をまとめる

石橋山の合戦の経過をまとめる

 石橋山の合戦は鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に詳しく書かれています。また軍記物語の「源平盛衰記」にもありますが、ここでは創作の色が濃い軍記物語ではなく、「吾妻鏡」から経過をまとめてみます。

☆8/17。源頼朝・北条時政等挙兵(山木攻め)。

治承四年(1180)八月十七日、源頼朝・北条時政等が挙兵し、平氏方の山木兼隆を討伐しました。

☆8/19。北条政子を走湯山に移す。

続く平氏との戦いに先立ち、頼朝は妻の政子の安全を確保するため、伊豆山の走湯山文陽房覚淵坊に匿ってもらいます。

☆8/20。源頼朝・北条時政等が出兵。

 相模国の大豪族で味方を表明している三浦氏と合流するため、源頼朝・北条時政等三〇〇余騎が伊豆を出て、相模国土肥郷へと向かいました。

☆8/22。三浦氏が三浦を起つ。

 三浦一族が頼朝等と合流するため三浦を起ちます。

☆8/23。頼朝軍が石橋山に陣する。

 夜に入り豪雨の中、頼朝軍が石橋山に陣を張りました。挙兵の正当性を証明するため、御旗の横上に「以仁王の令旨」を掲げたといいます。

 対して大庭景親率いる平氏方の三〇〇〇余騎が谷を隔てた北側に着陣しました。また南からは伊豆国伊東の豪族で平氏方の伊藤祐親が三〇〇余騎を率いて迫ってきました。

 (数と形勢から、頼朝軍はなかなか厳しい情勢だったことがわかります)

ただ大庭景親の背後から三浦一族が進軍しており、平氏方も予断を許さない状況でした。

☆8/23夜。大庭景親軍による強攻。

 大庭景親軍の後方を進む三浦軍が丸子川辺りで平氏方の家屋に火をかけました。これを見た大庭景親は、夜が明けると頼朝軍と三浦軍に挟まれると考え、夜で激しい雨かつ頼朝軍は山上という悪条件にもかかわらず、力攻めを決めます。

☆8/23夜。佐奈田与一義忠らが命を落とし、頼朝は後方に撤退。

 大庭景親率いる三〇〇〇余騎の強攻により、佐奈田与一義忠らが命を落とし、頼朝方はこらえきれず、頼朝は後方に撤退しました。

☆8/24。頼朝軍崩壊。

さらに手を休めない大庭景親軍の追撃によって、頼朝軍はバラバラとなります。北条時政の嫡子宗時は落ち延びる途中で討たれ、工藤茂光も自害に追い込まれました。

頼朝は山中に身を潜めているところを大庭景親に見つかりそうになりますが、梶原景時の機転を利かせ大庭景親を隣の峯の探索に誘導し、なんとか一命をとりとめました(ししどの巌谷)。

また頼朝方の敗北を目にした三浦軍は、武蔵国から三浦に迫る平氏方と戦うために三浦へと帰っていきました。

☆8/25。大庭景親が関を固める。

 頼朝の生死が確認できない大庭景親は、頼朝が逃げられないように関を固めました。

☆8/28。頼朝が真鶴岬より海路安房へと出航する。

 箱根・伊豆の山中を逃げ続けた頼朝は、土肥実平の用意した小船に乗って海を渡り、はるか房総半島の南の先に位置する安房国へと落ち延びていきました。

 土肥実平の子遠平は北条政子の元へこの状況を伝えたといいます。