源頼朝を石橋山の合戦で破った大庭景親には梶原景時など多くの相模国武士団が従っていました。その軍勢は頼朝方300騎🐴に対し、大庭方は3000余騎🐴もの大軍だったといいます。
ここでは頼朝の敵(つまり反乱を鎮圧する側)、大庭景親に従った武士、長尾定景👨🏻ゆかりの地を紹介します。
鎌倉の北、JR大船駅からさらに北西方面に長尾台(横浜市栄区)という小高い丘陵⛰があります。
ここに長尾氏は館🏡を構えていました(つまり長尾台は「長尾氏」の名字の地)。長尾氏は後に越後国に移り、戦国時代に長尾景虎(上杉謙信)という超有名な英雄を輩出するとんでもない一族です。
今、長尾台を訪れると鎌倉権五郎景政を祀る「長尾台御霊神社」⛩が鎮座し、長尾氏はその系譜をたどるといわれています。
頼朝の起こした反乱を鎮圧するため、大庭景親に従い相模国石橋へむかった長尾定景は、三浦一族の岡崎義実の嫡男、佐奈田与一義忠を討ち取りました。
後に頼朝が房総半島から世紀の大逆転を成功させると長尾定景は捕らえられ、佐奈田与一義忠を失った岡崎義実に身柄を預けられました。
明日をも知れぬ身となった定景は、毎日法華経を転読し、心を仏の任せるままに過ごします。この姿に岡崎義実は怨念の気持ちが和らいでいき、頼朝に助命を嘆願しました(「吾妻鏡」治承五年七月五日条)。
この申し出を頼朝は受け入れ、一命をとりとめた長尾氏は以後、三浦氏の郎等となっていきます。
後年、源実朝を暗殺した公暁を三浦義村の命令を受けて討ち取り、三浦一族が滅亡した宝治合戦でも長尾氏は三浦氏に与するなど、その傘下で活躍しました。
鎌倉市植木にある久成寺には長尾定景の御墓が伝わっています。
数奇な運命をたどった長尾定景と長尾氏。その存在はやがて越後の龍🐉となり、再び鎌倉に降臨します。