以仁王の乱~治承三年十一月の政変で解官された大物 藤原基房~

以仁王の乱~治承三年十一月の政変で解官された大物 藤原基房~

 前回は「治承三年十一月の政変で解官された人物」をとりあげました。この中でも当時の政界においてトップクラスに属したのが藤原基房です。今回は藤原基房の略歴を追い、どのような人物だったのかを簡単にとりあげます。

藤原基房(一一四四〜一二三〇)は、摂政関白を務めた藤原忠通の子として産まれました。異母兄に摂関家嫡流(近衛家)を継いだ基実、異母弟に九条家の祖となった兼実がいます。

 保元元年(一一五六)に元服、正五位下に叙任されると、同年、左近衛少将に任命されました。さらに翌年には、従三位権中納言へ昇ります。その後、内大臣・右大臣・左大臣と昇進を重ね、兄の基実が亡くなると、幼少の基実の嫡子基通に代わり、摂政に任命されました。

 基房は摂政になったとはいえ、摂関家領は基実の妻で平清盛の女、盛子が預かり、あくまで代理という位置付けの摂政・関白でした。しかし長く摂関を務める中で、後白河院の信用も高まり、重き存在として朝務を遂行していきます。

 盛子の死後に起こった「治承三年十一月の政変」によって解官された基房は、寿永二年(一一八三)に木曽義仲が入京すると、娘を義仲の正室に送り、嫡子師家を摂政とすることに成功しました。しかし木曽義仲が源頼朝の勢力に追討されると、師家は罷免され、基房も政界からの引退を余儀なくされます。そして新たな摂政には近衛基通が返り咲きました。このころになると摂政関白の地位は、武家勢力の台頭と衰退に翻弄される時代に入っていきます。

 政界から退いた基房でしたが、有職故実に長けた存在として、寛喜二年(一二三〇)に亡くなるまで、貴族社会と関わりを保ったようです。

 基房の家系は松殿と呼ばれ、兄基実の近衛家、弟兼実の九条家と並ぶ家柄でしたが、有力な武家の後ろ盾が無く、基房死後に衰退してしまいました。

 このように基房の一生は、平氏の台頭・摂関家の動揺・木曽義仲の入京・源頼朝による武家政権の樹立という激動の時代に翻弄された人生だったといえます。