今回、特集でとりあげた以仁王の何が歴史に大きな影響を与えたのかというと、彼が諸国の源氏に平氏打倒の蜂起を促した「令旨」にあります。「令旨」とは皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書でした。この貴人による命令は、応じるものに正当性を与えたのです。つまり本来官軍である平氏を、逆賊として討伐する大義名分となりました。そこで今回はこの「吾妻鏡」所収の「以仁王の令旨」を取り上げてみます。
<原文>
下 東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所
應三早追二討淸盛法師并從類叛逆輩一事
右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣、奉二 最勝王勅一偁、淸盛法師并宗盛等以二威勢一起二凶徒一亡二國家一、惱二乱百官万民一、虜二掠五畿七道一、幽二閉 皇院一、流二罪公臣一、断レ命流レ身、沈レ淵込レ樓、盜レ財領レ國、奪レ官授レ軄、無レ功許レ賞、非レ罪配レ過、或召二釣於諸寺之高僧一、禁二獄於修學之僧徒一、或給二下於叡岳絹米一、相二具謀叛粮米一、断二百王之跡一、切二一人之頭一、違二逆 帝皇一、破二滅佛法一、絶二古代一者也、干レ時天地悉悲、臣民皆愁、仍吾爲二一院第二皇子一、尋二天武天皇舊儀一、追二討 王位推取之輩一、訪二上宮太子古跡一、打二亡佛法破滅之類一矣、唯非レ憑二人力之搆一、偏所レ仰二天道之扶一也、因レ之、如有二 帝王三寶神明之冥感一、何忽無二四岳合力之志一、然則源家之人・藤氏之人、兼三道諸國之間堪勇士者、同令二与力追討一、若於レ不二同心一者、准二淸盛法師從類一、可レ行二死流追禁之罪過一、若於レ有二勝功一者、先預二諸國之使節一、御即位之後、必随レ乞可レ賜二勸賞一也、諸國宣二承知依レ宣行一之、
治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣」
難解でよくわからない語句が並んでいます。そこで書き下し文を書いておきます。
<書き下し>
下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏ならびに群兵らの所。
早く清盛法師ならびに従類叛逆の輩の追討に応じること。
右、前の伊豆守正五位下の源朝臣仲綱が宣す。 最勝親王(以仁王)の勅を奉りて偁く。
清盛法師ならびに宗盛らは威勢をもって、凶徒を起こし 国家を滅ぼす。百官・万民を悩乱し五畿七道を慮掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪す。 命を絶ち身を流し淵に沈め樓に込める。財を盗み国を領し官を奪い職を授く。 功無く賞を許し罪に非ずを過に配す。
あるいは諸寺の高僧を召しこめ、修学の僧徒を禁獄す。あるいは叡岳の絹米を給い下し、謀反の糧米を相具す。 百王の跡を断ち一人の頭を切る。帝皇に違逆し仏法を破滅す。古代を絶つ者なり。
時に天地はことごとく悲しみ、 臣民みな愁う。よって吾は一院(後白河法皇)の第二皇子として、 天武天皇の旧儀を尋ね、 王位推取の輩を追討し、上宮太子(聖徳太子)の古跡を訪ねて、 仏法破滅の類を打ち亡ぼさんや。
ただ人力の搆を憑むに非ず、ひとえに天道の扶けを仰ぐところなり。 これによって、もし帝王の三宝神明の冥慮があり、何ぞたちまち四岳合力の志無し。
しからばすなわち源氏の人、藤氏の人、兼ねて三道諸国の間、堪える勇士は、 同じく与力し追討をせしむ。 もし同心せずにおいては、清盛法師の従類に准じ、 死流追禁の罪過をおこなうべし。 もし勝功あるにおいては、 まず諸国の使節に預かり、御即位の後、必ず乞いに随い勧賞を賜うべきなり。
諸国よろしく承知し、宣よりこれを行うべし。
治承四年四月九日 前の伊豆守正五位下・源朝臣(仲綱)
と書かれています。
しかしまだまだよくわからないので、一言でいうと、
「東国の源氏・藤原氏よ。無法な行いをする平清盛とその一族を追討せよ。」
これでいいと思います!!